0│プロローグ

 泣いちゃだめだ。
 少女が心の中で何度唱えても、視界はクリアになるどころか、どんどん滲んで目の前がぼやけていく。
 いつの間に脱げたのか、靴を片方失って、泥だらけになった素足がぼんやりと映った。
 木々の間から、沈もうとしている太陽の光がうっすらと射し込んでいる。
 夜が来てしまう。
 なのに、四方どこを見渡しても、薄暗い森が不気味に広がっているだけで。どこにも開けた道は見当たらない。
 相変わらずカサカサと、木の葉が擦れる音が背後から聞こえてくる。
 風によるものなのか、それ以外の何かによるものなのか判断できず、後者の恐怖に駆られて走り出し、帰り道を見失ってしまったのがいけなかった。
 徐々に近付いてくる葉の音に、ドクドクと鳴り響く心音。
 もっと遠くへ逃げ出したいはずなのに、足は小刻みに震えるだけで、根が生えてしまったかのように動かない。
 ぎゅっと両手を握り締めて、揺れる葉を凝視する。
――ガサッ
 黒い影。

「ひゃ……!」

 少女は頭を抱えて地面にうずくまった。
 しかし、それはこちらに飛びかかってくるわけでも、それ以上近寄ってくるわけでもなく、ただじっとその場に立ちつくしていた。

「……だいじょうぶ?」

 少しの沈黙のあと、ようやく聞こえてきたのは、人の声。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて振り返ると、そこにいたのは、魔物でも幽霊でもない。同い年くらいの黒い髪をした少年だった。




Crimson Edge
―第0話 災難―




『迷信』とは何か。
 数刻前の彼なら、迷わず「どっかの誰かが吹いた作り話」と答えただろう。
 しかし、彼は後悔した。信じるに値する迷信もあるのだ、と。
 彼が気を失って牢に閉じ込められるまで、順を追って見ていくことにする。

 彼が『迷信』を無視して近付いたのは、一つの小さな祠だった。
 普段は気にも留めないその場所に、なぜ近付いたかというと、中から微かに人の声が聞こえたからだ。
 何を言っているのかまでは聞き取れないものの、妙に気になって足を踏み入れてしまった。その祠が、魔界と人間界を繋いでいたとは夢にも思わずに。
 彼は魔界に住む魔族だった。人間界の存在は聞いたことがある程度で、一度も行ったことはない。
 というか、そもそも行き方を知らなかった。多少の興味はあったが、特別行きたいと思っていたわけでもない。
 人間の間で語り継がれる魔界と同じように、彼ら一部の魔族にも「人間界は恐ろしい所」だと伝えられていた。
 なんでも、人間に遭遇した魔族は、捕まったら最後、ありとあらゆる実験や労働に心身をいたぶられ、必要がなくなれば殺されるとか。
 大地は腐っていて、太陽や月もなく、荒れ果てて淀んだ空間が広がっているとか。
 魔法の腕に相当な自信があった彼は、人間に捕まって殺されるなどという恐れを抱いていたわけではなく、単にそこへ行くメリットを感じなかっただけなのだが……。
 土臭い祠の奥に、細く長い道が続いていた。途中までは土壁に覆われたその道をはっきりと確認できたのだが、やがて前後左右さえ分からなくなるほど視界が暗くなった。壁に手をつきながら、なんとか歩ける状態だ。
 それでも奥へ、奥へと歩き続けると、だんだんと人の声がはっきりと聞こえてくるようになった。小さいけれど柔らかなその女の声は、一心に何かを唱え続けていた。
 それほど長い距離を歩いたわけではないが、短かったとも思えない。そんな微妙な距離を進んだ先に、小さな光が見えた。出口だ。
 顔だけ出して様子を伺うと、そこは木造の古い建物の内部だった。
 壁として、所々朽ちている木の板が打ち付けられている。少し埃っぽいが、汚くはない。定期的に誰かが出入りしているようだった。
 こじんまりとしたその部屋は、一目で見渡せてしまい、目を引くものといえば、左手に見える祭壇くらい。
 そういえば、と彼は首をひねった。さっき聞こえた声の持ち主が見当たらないのだ。その上、いつからか声も聞こえなくなっている。
 右手には扉があるが、そこから既に出ていってしまったのかもしれない。不審に思いながらも、彼は細く暗い通路からそろりと抜け出て、祭壇の前に立った。
 祭壇の石板には、一文だけこう刻まれていた。
『闇への道を封ず』
 その文字の上には、妖しい光を湛えた赤い石が埋め込まれていた。
 小さく歪な形をしたそれは、弱々しくはあるが自ら光を放っていて、ただの石ではないことは一目瞭然だった。
 何か特殊な力が秘められているのか。好奇心から、彼が徐に手を伸ばしたとき、

「だ……!」

 何かが聞こえたような気がした。蚊の鳴くような、何か。
 しかし、辺りを見回しても何もない。一つしかない扉も閉じられたまま。
 気のせいかと思い、もう一度手を伸ばすと、今度ははっきりと聞こえた。女の声で、しかも、思った以上に近くから。
 鼓膜がビリビリと震えた。

「だめ――――!!!」

 突然、目の前に現れた女。いや、自分と同い年くらいの少女? なぜ、どこから!?
 混乱する頭に、降ってきた鋭い衝撃。ゴツンと鈍い音が聞こえたかと思いきや、視界は暗転。そのまま彼は気を失ってしまった。
 騒ぎを聞きつけた村の者が集まってきて、彼はそのまま外へ運び出されていった。
 彼の名はグレン。
 彼女の名はラカ。
 この最悪の出会いにより、運命の歯車は動き始めることとなる。