1│発端

「……どこだ、ここ」

 思わず頭を押さえた。痛い。ズキズキとした痛みが脳にまで響く。
 その痛みで揺り起こされた、記憶の断片。
……あの女!
 そうだ、突然現れた女に何かで殴られて。そのあとは覚えていない。
 何で殴られた? いや、そんなことはどうでもいい!

「……どこだここ!?」

 目の前にはほっそりとした、頼りない柵。石造りの床、壁。薄暗くジメジメとした、やっと手足を伸ばせるかというくらいの空間。いわゆる牢というものだった。
 錆びついた柵に手をかけて、辺りの様子を見ると、小さなランプが一つ壁に掛かっているだけで、ほとんど真っ暗だ。
 同じような檻が、向かいに二つ。隣に一つ。奥に扉が一つだけ。
……と、確認したとき、その扉が開いた。ギイ、と音がして、数人の足音が聞こえた。人がやってくる。
 ランプの灯りをもろにこちらに向けられたので、首を引っ込めた。柵の前に立った彼らは、三人の中年の男たちだった。ごくごく普通の、人。しかし彼らの耳に視線が到達したとき、少年――グレンは、思わず目を見開いた。

「おお、気がついていたか」

 とは言ったものの、男に嬉しそうな様子は微塵もない。
 それもそのはず。
 真ん中の白髪混じりの男が、眉をひそめて言った。

「あの祭壇に手を出すとは、大胆なことをするものだ。魔族ってやつは」

 彼らの耳は、みな丸かった。人間だった。




Crimson Edge




「……あの女は」

 男たちを睨み付けながら、グレンは低い声で言った。それを聞いた男たちは、はっと顔を強ばらせ、ふてぶてしい態度のグレンを見据えた。

「『あの女』だと? 無礼な……神子さまをそのように呼び捨てるとは許さんぞ」

「……いきなり出てきて、いきなり殴ってきて、どっちが無礼だよ」

 グレンは、へっと顔を背けた。
 ガシャン、と檻が鳴り響く。真ん中の男が牢に掴みかかったのだ。

「ク、クムダさん……落ち着いて」
「そうですよ。明け方には、支部の方が引き取りに来ると言ってくださっています。そうなれば、こんな小僧なんぞ」

 両隣の男に宥められて、クムダと呼ばれた男はようやく柵から手を離した。
 なるほど。錆びついてはいるが、ちょっとやそっとの力じゃ壊せないか。チラリと柵を見て、グレンは思った。
 クムダは体格の良い男だ。その男が柵に飛びついたのなら、ボロの鉄棒くらい壊せそうだと思ったのだが。腐っても牢というわけか、簡単には壊れないようだった。
 クムダは相変わらず、グレンを睨み続けていたが、フンと鼻を鳴らして「まあいい」と背を向けた。

「支部に行けば、すぐに処遇が決まる……そんな態度でいられるのも今のうちだからな」

 そう吐き捨てて、男たちは出ていった。グレンは不思議に思った。てっきり一人か二人、見張りとして残ると思っていたからだ。
 男が言ったとおり、グレンは魔族だ。魔族とは魔法に長けていて、個人で差はあれど、みな強力な魔力を内に秘めている。
 その魔族を、見張りもなしにボロ牢に一人残しておくなんて。脱走してくださいと言っているようなものだ。
 グレンの場合、見張りがいようがいまいが関係なかったが。牢破りを見られたとしても、魔法で気絶させるなり何なりして、逃げ出せばいい。
 魔法に関して、彼は絶対の自信を持っていた。魔法で仕留められなかった魔物が、今までに一匹たりともいなかったから。
 近辺でも、彼より魔法の上手い者はいなかった。……いや、ただ一人だけ、頭の上がらない奴はいたが。認めたくはないけど。
『目付け役』と称して、自分のすることに何かと口を出してくる鬱陶しい男の顔が思い浮かんだが、ぱっぱっと振り払ってすぐに掻き消した。
 さて。
 さっきの男は、処遇がどうのこうのと言っていた。このまま黙って居残れば、良からぬことが起こるに違いない。
 それなら、こんな好都合な状況を逃す手はない。
 爆発を起こして柵をぶっ飛ばそうか。いや、それだとこの建物自体も壊れて、瓦礫の下敷きになる可能性がある。
 風の刃を作って、柵だけ切り倒す。これでいこう。
 ずきりと殴られた頭が痛む。
……あの女、手加減もクソもねえな。
 前に突き出した右手を降ろして、グレンはしゃがみこんだ。頭を抱える。ひどくズキズキする。
 グレンは魔法を使うのを止めた。頭が痛くて、とてもじゃないが集中できない。魔法を使わずに脱出する方法はないか。望みは薄かったが、ゆっくりと頭を上げて、天井近くにある小さな窓を睨み付けた。
 格子のはまったそこから、白く輝く月が見える。あの格子が外れれば外に出られる。……外れれば。
 出られたとして、ここが何階かも分からない。一階じゃなければアウトだ。
 飛び降りて怪我をした挙げ句に見つかるなんて、無様な真似はしたくない。
……それ以前に、何の取っ掛かりもない壁を、頭上高くにある窓までよじ登るのは無理があるが。
 グレンは首を掻いた。窓が無理なら、床は?
 錆びた柵に背をもたれて、そこから見える左の奥の隅。一見は普通の床だが、目を凝らしてよくよく見てみると、タイルのように並んでいる石の床の一枚だけが、僅かに出っ張っているように見える。
 まさかな、と思いながら、その床の傍にしゃがみこんだ。指先に力を込め、石の側面を挟み込んで思いっきり引っ張った。

「……マジか……」

 不幸中の幸いというやつか。グレンは心の中でよっしゃ、と呟いた。
 石の板を嵌め込んでいたそこには、闇に溶け込むようにして下へ降りる階段があった。
 一応、牢の外を振り返って、誰も見ていないのを確認すると、一歩、階段へ足を踏み出した。
 どこへ繋がっているかは分からないが、ここにいるよりはずっとマシだろう。





 数刻後。
 牢ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
 もちろん、捕らえていた魔族――グレンがいなくなっていたからである。
 クムダたちが各々の家に戻ってからしばらくして、村に遣いの者が訪ねてきた。
 魔族の引き渡しに寄越されたのは、たった一人の青年だった。
 それも見上げるほどの長身で、大の大人でも扱えるかというほどの大きな剣を携えていた。

「支部で人手が足りないらしくて、代わりに依頼を受けて来ました」

 そう言って、青年は懐から取り出した一枚の紙切れを見せた。
 支部の署名と、判が押されている。

『傭兵ギルドの許可を得て、この者をアルクメリアの任に命ずる』

 アルクメリアとは、人間に害を及ぼす魔族に対抗する、対魔族専門団体のことだ。
 つまり青年は、アルクメリアから依頼を受けた、傭兵ギルド所属の者ということになる。
 脱出に使われた、先の見えない地下への階段を覗き込みながら、男たちはみな一様に驚いていた。
 この辺り一帯では、昔、地下道を作って鉱石を発掘していた。その当時からなのかどうかは定かではないが、妙な声が聞こえたり、不可解なことが起こったりして、今では誰も近寄らなくなっている。

「暗いですから、お気をつけて」

 青年にカンテラを渡して、男は言った。
 同じ道を辿って、後から追いかけることにした青年は、灯りを階下に向けながら慎重に下りていく。
 と、そのとき。
 ごつん、と音が響いたあと、青年はその場にうずくまった。足元に注意を向けるあまり、低くなっている天井に気づかず、額を思いっきり打ち付けてしまったのだ。

「いっててて……」

 それを見ていたクムダたちが、先行きを不安に思ったのは言うまでもない。




 一方、グレンのほうはというと。
 そこらじゅうの土壁や、地面に点在している光る鉱石に感嘆していた。
 薄暗いはずの地下道で、白や青、様々な色の光を淡く発している。
 あの祭壇に嵌まっていたものと同じなのだろうか。あの石のように、赤い光を放っている石は見当たらないけれど。
 光る石のおかげで、洞窟内はほどほどに明るい。少なくとも、足元の障害物(転がっている岩やデコボコの地面など)に困らないほどには。
 どこか遠くで、雫の滴るような音がする。水場があるのかもしれない。
 歩調に合わせて、靴が地面を擦る音が響く。
 牢からは月が見えたが、ここには時間を知らせるものが何もない。
 特に分かれ道があるということもない。変化のない一本道を歩き続けるのは、思った以上に気が滅入る。
 時々、コウモリがキイキイ鳴きながら飛んだり、見慣れないきのこが道端に生えていたり。それ以外、変わり映えのない風景の連続。
 直角に道を曲がり、ぴたりと歩を止めた。少し開けた場所に出た。
 目の前には小規模な地底湖。デコボコの天井から、水滴が滴って湖に吸い込まれていった。ピチョン、と響く音は、ここから聞こえてきたものなのだろう。
 ふわりと頬に風を感じて、視線を向けた。右方に通路がある。この風が、出口が近いことを知らせるものだとしたら。
 自然と心が軽くなる。
 グレンが足を踏み出したとき、カツン、という音が響いた。蹴っ飛ばした小石が壁に当たったような音。もちろん、自分の足元から出た音ではない。
――誰かいる?
 それも不思議ではなかった。たとえば、脱走に気づいた誰かが追ってきたのだとすれば。
 早くここから出るに越したことはない。気を取り直し、再度歩き始めようとしたときだった。
 何かの気配を感じ、グレンは周囲に視線を走らせた。

「グルルル……」

 低い唸り声。地面を踏みしめる音。荒い息遣い。
 何かいる!

「魔物……?」

 ぐっと目を凝らして、前方の暗がりの中の通路を見る。何もいない。だが、どこからか気配はする。
 そのときだった。
 視界の端に、動く影が見えた。

「うわっ!!」

 瞬時に後ろへ飛び退いた。頬にピリッとした痛み。じわりと集まる熱。
 すぐに体勢を立て直してそれを見た。
 褐色の毛並みに、白い牙と爪が光る。しなやかな肢体を翻し、唸り声を上げながらこちらを見据えているのは、ウルフだった。
 体長1.4メートルほど。尾を含めるとグレンの身長をゆうに超える。
 すぐ傍の壁に横穴が空いているのが目に入った。膝くらいの高さにあるので気付かなかったが、その横穴を住処にして潜んでいたに違いない。
 グレンはにやりと笑った。ウルフの肉は特別好きというわけではないが、ちょうど腹が空いていた。
 丸焼きにして食ってしまおう。グレンは右手をかざした。
 呪文はいらない。幼い頃から、片手一つでどんな魔法でも展開できた。
 身体の奥底で芽生えた力が、電流のように走り出す。肩を伝って、腕を通り、掌に集まって一気に放出される……!
 はずだった。

「……!!」

 突然、割れるような痛みが頭に起こった。
 牙を剥いて飛び掛かってきたウルフの一撃を、すんでのところでかわした。
 バランスを崩し、地面に倒れ込む。擦れた肘は痛み、あちこちが土で汚れたが、そんなことを気にしている場合じゃない。
 何でもいい。
 魔法を使わなければ。
 たかが頭痛で膝をついている暇はない!

「こン、の……!!」

 くそったれ、と悪態をつき、低く姿勢を構えるウルフを睨みつけた。
 響く痛みを堪えて、再度目の前に右手を伸ばした。
 だが。
 いつものような力が流れてこない。
 腕や掌が、ぐんと熱くなるような、重くなるような感覚もない。
 それで気がついた。
 頭痛が問題なのではない。
 魔法が使えなくなっている。

(な、なんで)

 ウルフがこちらをめがけて突進してくる。
 今まで一度も対面したことのないこの危機感の先は。
――死。

(嘘だろ……!)

 ぎらりと光る牙を目前にして、グレンが反射的に頭を伏せたとき、背後から人の声が聞こえた。