2│傭兵

「こっちだ!」

 ウルフはグレンの頭上を跳び越えて、声の主へと向かっていった。
 来るはずの攻撃に身を固くしていたグレンは、何の衝撃も襲ってこないこと、そして、突然人の声が響いたことに驚き、背後を振り返った。
 抜き身の剣が、鉱石の光に反射して鈍く光った。
 弧を描いて、一閃。
 跳びかかったウルフの巨体を白刃が凪ぎ払った。
 急所に入ったのだろう。たったの一撃だった。
 獣の断末魔を上げて、ウルフはどおっと地面に倒れた。
 辺りはシンと静まり返ったが、グレンの心臓はバクバクとうるさく鳴り響いていた。
――死ぬかと思った。
 ウルフを倒した青年を見上げると、彼は肩で息をしながら、剣を鞘に戻しているところだった。
 グレンの視線に気づき、こちらに歩み寄ってくる。
 その彼もやはり、人間だった。
 どうする、とグレンは思った。
 魔界に伝わる人間の話が頭の中を過る。

――人間に遭遇した魔族は、捕まったら最後、ありとあらゆる実験や労働に心身をいたぶられ――

……必要がなくなれば殺される。

 人間になんて捕まるわけがない。万が一捕まったとしても、誰よりも強大な魔力が自分の武器で、大した魔法も使えない人間など相手ではない、そう思っていた。
 それなのに。
 その魔法が、今は使えない。
 その上、目の前にいるのは、人一人分の大きさはあるウルフを、魔法ではなく剣で(それも一撃で)仕留めるような男だ。
 なんとかなるような相手とは思えない。
 やがてグレンの前に立ち止まった青年は、少し腰を屈めた。
 ただ睨みつけることしかできないグレンに腕が伸びる。首でも絞める気か!
 しかし、目の前に差し出された手は開かれたまま、それ以上近づいてはこなかった。

「何もしないから、安心して」

 青年はそう言うと、地面に座り込んだままのグレンに「立てる?」と訊ねた。
 グレンは暫しぽかんとしたあと、かあっと頭に血が上るのが分かった。
『何もしないから』。そんな言い方はまるで。

「……俺がビビってるみたいな言い方すんな!」
「え? でも、ずっとこっち睨んでるから、そうなのかと思って。それに」

――魔法も使えないんでしょう?
 その一言で、グレンは頭の血が一気に冷めていくような気がした。
 なんで知っている。そんな無言の問いかけを感じ取ったのか、青年は少し困ったように笑った。




(でか……)

 カンテラで道を照らしつつ先導する青年の後ろ姿をジロジロと眺めながら、グレンは思った。

「? 何?」
「……別に」

 振り返った青年は微笑んで、また前を向いて歩き出した。
 青年の名はダグラスという。
 アルクメリア支部の依頼を受けて、グレンを引き受けにきた傭兵である。
 特徴的なのは、身の丈2メートルを超える大きな身体に、大きな剣。
 一見穏やかそうな顔をしている彼も、言い伝えのように冷酷な人間なのだろうか。グレンは黙々と歩きながら、前を歩くダグラスをずっと睨み続けていた。
 支部のある街へ向かうために、まずはこの地下道から出なくてはならず、ダグラスはグレンを引き連れて前へと進んだ。
 グレンとしては、このまま連れていかれるのは何としてでも避けたいところなのだが、魔法が使えないのではどうしようもない。万が一うまく逃げられたとしても、また魔物に遭遇したら、今度こそ命を落としかねない。
 グレンは内心で舌打ちをしながら、先ほど、ウルフに襲われたときのことを考えていた。
 魔法を使うときに生じる熱が、まったく流れてこなかった。
 それと同時に、あの割れるような頭の痛み。あれも何か関係があるのだろうか。
 そういえば、とグレンは思った。
 牢を魔法で壊そうとしたときの頭痛もひどかった。神子と呼ばれているらしい女に殴られたとき、何か起こったのではないだろうか。

「ねえ」

 一人ぐるぐると考え込んでいると、不意にダグラスが口を開いた。
 グレンは怪訝な表情を隠そうともせずに、彼を見た。

「祭壇を壊そうとしてたって聞いたんだけど、本当?」

 祭壇。あの光る妙な石が嵌まった台座のことだ。
 神子だという女も、牢で見た男たちも、あの祭壇を特別視しているようだった。
 しかし、グレンにとっては関係のないことだ。たまたま道の繋がっていた先にあの祭壇があっただけで、どんな力を秘めているのかもまったく知らないのだから。
 そして、意思とは関係なしに、いつの間にか人間界へ足を踏み入れてしまっていた。

「……そもそも、何のためにアレを壊さなきゃいけねえのかも分かんねえんですけど?」

 グレンの若干イライラした口調に怯むことなく、ダグラスは振り返った。

「え? じゃあ何しに来たの?」
「俺が知りてーよ!!」

 イライラする。何もかも分からないことだらけだ。
 知らないうちに人間界に来ていて、挙げ句、魔法も使えなくなって。牢にぶちこまれるわ、魔物に殺されかけるわ、散々だ。
 憤るグレンを見て、ダグラスはきょとんとしていたが、何かを思案するように空を見つめたあと、また前に向き直った。

「そっか、迷子か……」

 ぽつりと聞こえたダグラスの呟きに、グレンは青筋を立てた。
 魔法が使えたら丸焦げにしてやるところなのに。
 この男といい、牢で会ったあの男たちといい、神子の女といい。ろくな人間に出会っていないのはなぜだろう。
 そんなグレンの心中に気がつく様子もなく、ダグラスは思い出したように振り返った。全身をまじまじと見たあと、

「服、泥だらけだね。街に着いたらオレの家に行こう」

 代わりの服があったかな、などと呟きながら、再び前を向いて歩き出した。
 言われるまで気がつかなかったが、先ほど魔物に襲われたせいで、あちこちが土で汚れていた。
――街。
 ここが人間界であることが気掛かりだが、街ならどこかに身を隠せるかもしれない。魔物に襲われる心配もない。
 隙をついて、この男の目の届かないところに逃げるか。
 しかし、このままずっと魔法が使えないのなら、逃げたところで先が知れている。
 元通り、魔法が使えるようになってから逃げる、というのがベストだが、一体どうすれば元に戻るのか。
 あの神子が鍵を握っているとしても、もうどこへ行ったのかも分からない。
 完全に八方塞がりになってしまい、グレンは頭を抱えた。
……あの男の言うことも、たまには当たるもんだ。
 あの男とは、グレンに祠のことを言い伝えた人物だった。
 どうにも胡散臭くて、しょっちゅう嘘か本当か分からないようなことを言う男だったため、まさかこんなことが現実になるとは思ってもみなかったが。
 洞窟内に吹き込んできた風が頬を撫でるのを感じて、顔を上げると、洞窟に丸く切り取られたような空と大地が見えた。
 地下を進んでいる間に夜が明けたのだろう。出口には光が射し込んでいた。

「……ああ、ここに繋がってたんだ」

 地上に出たダグラスが、辺りを見渡した。
 続いてグレンもそろそろと顔を出す。
 近くの木々がガサリと揺れ、小さな鳥が大勢飛んでいく。
 広がる草原、青味がかった空。遠くに見える茂った森。
 少しひやりとした風が通りすぎていく。早朝らしく澄んだ空気が辺りを包んでいた。
 その手前には街が見える。恐らくあの街が、これから向かう場所なのだろう。近くて良かった、とダグラスは言った。
 やはり、ここはグレンがいた世界ではない。
 高い空、青々とした大地。木々の隙間からこちらの様子を伺っている、鳥や栗鼠などの小動物たち。どれも今の魔界からは失われてしまったもの。

「どうしたの? 早く行こう」

 その場に突っ立ったままのグレンに、ダグラスが声を掛けた。
 はっと我に返って、恐る恐る洞窟の外へ踏み出した。
 踏みしめた大地は、乾いてはいるがマナに満ちている。
 久方ぶりに見る白い太陽は、低い位置からグレンたちに日差しを浴びせていた。




■日没前

「――そういう訳なので、こちらから傭兵ギルドに手配しておきます。申し訳ありませんね」
「はあ……」

 がらんとした支部内で、カウンターの受付員にそう言われてしまっては、首を縦に振る以外になく。
 少女は支部を出て、しばらく呆然としていた。
 小高い丘のようになっているこの場所からは、数メートル先の市場の様子がよく見える。
 空がオレンジ色に変わり始めた今は、ほとんどの店が店じまいを始めているようだった。

「どうしよう……」

 宿は支部が用意してくれている。夕食を食べるだけのお金もある。
 彼女が悩んでいるのは、数刻前、小さな村の離れにある祭壇で出会った魔族の少年についてだった。
 そう。彼女がグレンを気絶させた神子。名前はラカ。
 対魔族専門団体、アルクメリア。
 生まれつき、特殊な能力を持っていたラカは、神子としてアルクメリアに所属している。
 特殊な能力というのは、相手の魔力を抑え、一時的に魔法を使えなくする力のこと。この世界では封術と呼ばれ、それを操る者は封術師と呼ばれている。
 そして、封術師としてアルクメリアに所属している者を神子と呼ぶ。
 神子の仕事は、主に祭壇に封印を施したり、魔族から魔法を封じて攻撃手段を奪ったり。
 すべての魔族に言えることではないが、魔族といえば一般的に攻撃性が高く、野蛮な印象が根強く残っている人間たちの中には、彼らに恐怖心を抱いている者が少なくない。
 なので、魔族に対抗できる唯一の力を持った神子たちに対し、敬意を表して【神子さま】と呼ぶ者もいる。ただ、そういう扱いを受けるのに慣れていないラカは、それが少し苦手だったが。
 さて、彼女が途方に暮れている理由に話を戻すと。
 察しの通り、グレンが魔法を使えなくなっているのは、彼に対し、ラカが封術を使ったからだった。
 彼女がグレンのことを祭壇を破壊しにきた魔族だと思い、封術を使ってしまったのには理由があった。
 近頃、何者かに祭壇が破壊される事件が多発していたからだ。
 グレンが気絶したあと、村の者に話をしてから慌てて支部に戻った彼女だったが。支部には人がほとんどいなかった。
 それもそのはず。今度は一つ山の向こうにある、ラカが向かった祭壇とは別の祭壇が破壊されていたのだから。
 山を越えるのにかかる日数を考えれば、グレンと祭壇の破壊を行っている犯人は別人なわけで。冷静に考えれば、あのとき祭壇を破壊するための魔法を彼は唱えていただろうか……。

「お……怒ってる、だろうなあ……」

 気が動転して、杖で思いっきり殴ってしまった。最悪、謝っただけでは済まないかもしれない。相手は魔族だ。
 ラカは魔族が苦手だった。魔族と一括りに呼んではいるが、魔女や悪魔、魔獣など、その素性は様々だ。
 アルクメリアが対峙するのは悪魔がほとんどで、グレンのように人型の魔族と相対することはほとんどない。
 ラカは戦いが苦手なため、祭壇に封印を施す仕事を主に引き受けている。しかし、魔族と対立する機会がまったくと言って良いほどないのに、なぜか、魔界との境界が薄い場所に行くと、必ず『人間ではない何か』が頭の中に語りかけてくる。そのせいで、魔族と聞くと自然と身構えるようになってしまっていた。
 それでも、今回は自分の間違いである可能性が高い。
 恐らく明日、支部が手配した傭兵とともに、少年はこの街にやってくるだろう。
 そのときに封術を解除して、謝罪をして……。

「ああああ……」

 恐い。恐すぎる。
 夕焼けに染まる丘の上、少女は一人うずくまって頭を抱えるのだった。