3│神子

「ダグ! こんな朝早くからお仕事かい?」
「あ、ボンスさん。おはようございます」
「ダグちゃん、こないだのパルフィの実、仕入れといたからね!」
「え、もうですか? いつもすみません」

 市場の朝は早い。
 街に着いたグレンとダグラスは、住宅街へ向かうために市場のある通りを歩いていた。
 澄んだ空の下、色とりどりの布を屋根にした店が立ち並ぶ。
 街に着いたのは良いが、入り口から数十メートルしか進んでいない。顔馴染みらしい店員から、ダグラスがひっきりなしに声を掛けられているからだ。
 しまいには、グレンに背を向けて買い物を始めてしまった。
 おいおい……。
 グレンは呆れた。
 魔族であるグレンを引率するのが彼の役目のはずだ。このまま逃げでもしたらどうするつもりなのだろう。
 それとも、魔法が使えないうちは逃げない、とでも思っているのだろうか。

「…………」

 そろり、と後ずさる。足音を立てないように。
 レンガ造りの家がある。それに挟まる形でできた細い道から、向こうに通りが見える。
 この道を抜けて、どこかに逃げてしまおうか。

「あ、グレン」

 ダグラスが振り返った。
 気づかれた!
 一気に駆け出そうとして背を向けたそのとき、

「わ、ぶっ」
「おっと」

 目の前に黒い壁が立ち塞がった。
 鼻を強かに打って、その壁を睨みつけるように見上げる。

「なんだ坊主、危ねえなあ」

 そう言ったのは、まさに壁という表現がぴったりなほど、屈強な体格をした中年の男だった。
 黒いエプロンから伸びた腕は筋骨隆々、ダグラスほどではないが、見上げるほどの長身だ。

「エルダさん、すみません。グレン、ちゃんと前見ないと危ないよ」

 その言い方が、何だか子供に言い聞かせる親のようで、グレンは顔をしかめた。
 エルダは、がははと豪快に笑った。
 彼は、このレンガの家を住居兼仕事場にしている鍛冶師だ。
 声も身体も大きく、子供が見たら泣き出すような容貌をしているが、陽気で街の住人からの信頼も厚い。

「ダグ、相変わらず世話焼きだな。ラグドール先生がいたときのことを思い出すなあ」

 そう言って、今度はグレンに目を向けて、おや、という顔をした。

「……尖った耳に額の紋様……魔族か?」

 その言葉で、それまでダグラスと話していた店員たちの視線が、グレンに一斉に集まった。
 グレンはじろりと周りを睨みつけた。
 売られた喧嘩は買ってやるのが信条だ。
 しかし、グレンが何かするより先に、ぬっ、と唐突にエルダのグローブのような手が伸びてきて、グレンの頭をがしりと掴んだ。そのまま、身体の軸がぶれるほどわしゃわしゃと頭を撫でられた。
……いや、撫でるなどという生易しいものではない。

「珍しいな、魔族なんて。なんか悪さでもしやがったか」

 ぐわんぐわんと視界が回る。グレンは腕ずくでエルダの手を振り払った。そんな乱暴な動作にもエルダは笑ったままだ。

「本当、珍しいわねえ。私、初めて見たわ」

 ダグラスに紙袋を渡す女性は、グレンを見て驚いたように言った。

「ええ、オレも初めてです。ちょっと事情があって、支部に行かなきゃいけないんですけど」
「何だ。やっぱり何かしでかしたんだな」

 ニヤリと笑って、再度グレンの頭に伸ばしたエルダの手を、グレンは鬱陶しそうに払った。
 人々に軽く挨拶をして歩き出したダグラスの後を、グレンは怪訝な顔のままついていく。
 てっきり取っ捕まえられるか、良くて邪険に扱われるものだと思っていた。
 この街の人間は、牢で会った人間とはだいぶ様子が違う。
 それだけじゃない。グレンは辺りに視線を巡らせた。
 緑に恵まれた大地。青い空のどこからか、鳥のさえずりが聞こえてくる。
 すうと息をすれば、心地の良い空気が肺に満ちる。
 この世の終わりのような姿はどこにもない。話で聞いていた人間界とこの世界は、裏と表ほどに違っていた。
 どちらかと言えば、むしろ――。
 グレンの頭に、故郷の景色が思い浮かんだ。どこもかしこも闇に飲まれそうな色に染まっている故郷と比べると、この世界は明るすぎる。
 どこか遠くを見ているグレンに気づき、ダグラスは立ち止まった。紙袋をグレンの目の前に差し出すと、それはガサリと音を立てて揺れた。

「ご飯食べよ」

 訝しげな目で、袋とダグラスを交互に見るグレンに、ダグラスは笑った。

「これね、パルフィっていうフルーツ。美味しいよ」

 腹が減っていないわけではない。何せ、この世界に飛ばされてから何も食べていないのだから。
 しかし、素直に受け取ってしまうのも気が引ける。人間の出した食い物は信用できない。
 それに、これからどうなるかも分からない状況で、のんびり食事などできる気分にもなれなかった。

「毒とか入ってないよ。ほら」

 拳大の果物を一つ取り出して、ダグラスはかじりついた。シャクリと小気味いい音。甘い香りが漂うのと同時に、瑞々しさを表す、たっぷりとした果汁が指に滴った。
 警戒している猫やら何やらに対するような言い様だと少し思ったが、ムッとするより先に、腹が盛大な音を立てて鳴った。

「…………」
「ふふ」

 ばつの悪い顔のまま、差し出された桃色の実を手に取った。手の上で様々な角度から眺め回し、鼻先に近づける。
 妙な匂いはしない、ただ甘い香りだけが鼻先をくすぐった。
 そっと唾を飲み込んだのに、ごくりと喉が鳴る。意を決して、少し、歯を突き立てる。
 じわり、果汁が滲んだ。

「いつも新鮮な果物、仕入れてくれるんだよ」

 美味しいよね、とダグラスは言った。
 グレンは、じわじわと頬が熱くなるのを感じた。
 なんだ、この食い物は。

「……グレン?」

 黙りこくったグレンを不思議に思い、ダグラスが覗き込んでくる。
 舌の上が甘い。しかし豊富な水分が、さっぱりとした後味の良いものに変えている。ベタベタに甘いものが苦手でも、これは程よい甘味だと感じた。
 こんなものは食べたことがない。これが果物だというなら、今までそれと信じて食べていたものはなんだったのか。
 思い出せるのは、砂のようなもそもそした舌触りの、色褪せた赤をした林檎だった。

「……美味い」

 昼間の喧騒の中だったなら、間違いなく聞こえなかっただろう。口の中だけで呟いた言葉は、ちゃんとダグラスにも届いたらしい。ぱっと顔を輝かせて、袋から二個三個と取り出してはぐいぐいとグレンに押しつけた。

「もっと食べていいよ、たくさんあるから」
「ば、止めろ! お前が先に食え!」

 他のに毒が盛られてたら嫌だ、と突っぱねたとき、二人の手で弾かれた実が一つ宙を舞い、石畳の上を転がった。

「わっとっと……」

 ダグラスが屈んで拾い上げる。その巨体の影になっていて今まで気がつかなかったが、街路の向こうで一人、ロッドを持った人間が佇んでいるのが見えた。
 背格好からするに、少女だろうか。誰かを探しているように、市場のほう――街の入り口を覗き込んでいる。
 その姿に、どこかで見たことあるような、とグレンは眉間に皺を寄せた。人間に知り合いはいない。見たことがあるとすれば牢で出会った人間か、祭壇で出会った――。

「あいつだ!」

 グレンが叫ぶと、その声に反応して少女がこちらを振り向いた。
 あのときはすぐに気絶してしまったので、そうしっかりと相手の姿を記憶しているわけではない。しかし、あの赤い服に、忌々しい金色のロッド。恐らくあれで頭部を殴ったのだろう、思い返すと頭がずきりと痛んだ気がした。

「逃げんじゃねえぞ!」
「えっ、えっ? 何?」

 きょろきょろと辺りを見回すダグラスを放って、グレンは少女めがけて突進した。
 少女はぎょっとした顔をして、わたわたと周囲を見渡した。そうして、一番近い路地裏に身を滑らせた。
 逃がしはしない。逃がしてなるものか。
 足を縺れさせ、思うように走れない少女の手首をがしりと掴んだと同時に、ぐんと後ろからも引っ張られた。ダグラスがグレンの服を掴んでいた。

「ひっ!」
「てめ! 逃げんなっつったろ!!」
「グ、グレン落ち着いて! 何なに、何があったの」

 ダグラスが無理やり少女からグレンを引き剥がすと、彼女は足の力を失って、がくんと地面に座り込んでしまった。

「ごごご、ごめんなさい!!」

 涙混じりの声を震わせて、地面に突っ伏してしまった。いわゆる土下座である。
 少女の土下座というのは、胸が痛むものがある。何とも言えない罪悪感に顔を引きつらせて、ダグラスは少女に近づいて腰を屈めた。

「あの、顔、上げてくれるかな? 怒鳴りながらいきなり追っかけてきた俺たちが悪いんだし……」
「……はあ!?」

 聞き捨てならないという風に、グレンが大声を上げた。しっ、と人差し指を口元に当てて、ダグラスが振り返った。

(……お前は黙ってろ、ってか!?)

 怒りにプルプルと拳を震わせていると、少女がゆっくりと顔を上げた。恐々と視線を泳がせながら。

「……あれ?」

 ダグラスが小首を傾げた。
 目の前の青年がじっと視線を注いでいるのに気がついたらしい。おずおずと目線を上げ、少女はその視線を捉えた。

「ラカ?」
「え、えっと……そうですけど……」

 それを聞いたダグラス、うわあ、と感嘆の声を上げて、いきなり手を叩いたものだから、少女はびくりと跳ね上がった。

「何年ぶりかな、ねえ。オレ、ダグラスだよ」

ちっちゃい頃に近所だった、と言うと、ようやく少女が怯え以外の別の表情を滲ませた。

「だ、ダグ?」
「そう! 久しぶりだねえ」

 まだ目を白黒させている少女の手を上下にぶんぶんと振り、ダグラスは笑った。
 同じように、状況をいまいち把握できていないグレン。呆気にとられて声を掛けるタイミングを掴めないでいると、ダグラスがようやく振り返った。

「俺の幼なじみなんだ。こんなところで会えるなんて」

 で、さっきはどうしたの? とダグラスが問いかけたのは、もちろん二人に関してだ。グレンは座り込んだままの少女に視線を投げた。
 するとばっちりと目が合ってしまい、少女は顔を青くして、また視線をさ迷わせた。

「あ、あ、あの」

 ムッとした顔のまま立ち尽くすグレンと、彼を見て怯える少女。
 微妙な空気を漂わせる二人に挟まれて、ダグラスは首を傾げた。