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夕暮れの空は青紫に染まり、星は白く点々と輝いている。
男の向かう先には、灯りのともる一軒の店がある。
乾いた地面と枯れ葉を踏み締めて、男は確かに歩いている。そのはずなのに、足音がまったくしない。
肩に羽織ったコートが風になびいた。衣擦れの音さえ立てずに歩く様は、まるで影だけが動いているようだった。
ドアの前に立つ。ノックもせずにドアノブを回す。取り付けられているベルも、なぜか沈黙したままだった。
ランプの灯りに照らされる室内、カウンターの向こうに、店主の後ろ姿が見えた。
男はゆらりと身体を揺らし、無言でその背後に立った。
「こんばんは」
男が声を発すると、店主は跳ね上がった。
目を見開いて振り返った。そして、男の姿を確認するとあからさまに脱力した。
「……旦那、店に来るときは普通に来てくださいって、何度も頼んだでしょう」
半分、諦めたような声で話す店主は、猫のような顔をした亜人だった。黒いローブの裾から覗く、黒く長い尾をうなだらせて、店主は男を恨めしげに見た。
男は悪びれた様子もなく笑った。
「平穏な日常に、たまには刺激を与えてやろうかと思って」
「旦那と悪魔くらいですよ、そんな余計なことしてくれるの」
恨み言を気にも留めず、男は棚に並んでいる商品をぽいぽいとカウンターに放った。菓子、紅茶、刻み煙草。男が買っていくものは、いつも嗜好品ばかりだ。
とは言っても、男がこの店に来るのは久しぶりだった。前に来たのはいつだったか。いつもお使いを押しつけられ、代わりに買い物に来る少年の、心底面倒だというような表情を思い出す。
「いつものお使いの子はどうしたんです?」
お使いを寄越さず、男が自らここに来るのは珍しい。そう思い、商品の合計金額を算盤で計算しながら、店主は尋ねた。
すると、男は腕を組み、わざとらしく悩むような仕草をした。
「あー……ちょっとそれを調べにね」
「?」
「どう? 北の森」
ここからそう遠くない距離に、深い森がある。
そこに竜が住み着き、山火事やら地鳴りやらで、周辺は大きな被害を被っていた。
この雑貨店もそうだ。近隣の住民と相談し、討伐依頼を出したのはここの店主だった。
「おかげさまで、大分被害がなくなりましたよ。竜の鳴き声もしないし、安心して眠れます」
依頼が完遂されたのか、近頃は耳をつんざくような雄叫びも聞こえない。
人の往来が多い場所とは言えないが、それでも住民や数少ない旅人は、以前と同じように街道を歩けるようになった。
ドラゴン狩りを成せる人物はそういない。
「……そうか、仕事はしたんだな」
「え?」
「いや、何でも。どうもありがとう」
カウンターに代金を置いて、男は紙袋を受け取った。
店を出て空を見上げると、北の森の遠くに、厚い灰色の雲が浮かんでいた。
空気も何となく湿っている気がする。数時間後には雨が降るだろう。
ぼんやりと考えていると、コートの襟がもぞもぞと動いた。
「ミュ!」
白い毛玉、もとい小動物が飛び出し、その小さな鼻をしきりにひくつかせた。
背の翼をばたつかせ、宙を舞った。向かったのは、森とは正反対の方角だ。
あっちには確か……。
「あ」
思い当たった節に、男は無意識に声を上げた。
そういえば、古びた祠があった。魔界と人間界を繋ぐとかいう。
しかし、まさか。
「まさかねえ……」
男は懐から煙管を取り出し、口にくわえた。そして歩き出した。
小さな白い獣が飛んでいった方角に向かって。
「おい、まだかよ」
「ごめん、もうちょっと」
返ってきた言葉に、グレンは何度目かも分からない溜め息をついた。
ダグラスの家は近く、すぐに着いたは良いものの、それからが長かった。
ウルフに襲われた際に汚れた、グレンの衣服を替えようということになり、ダグラスはタンスの中を漁った。
数年前、グレンと同じくらいの身長だった頃の服がしまってあるはずだった。
現在の二人では、体格差がありすぎてサイズが合わない。遠回しにチビだと言われているようで、グレンは不愉快極まりなかった。が、もちろんダグラスにそんな意はない。
引っ張り出された服のうち、肩にベルトの装飾があしわれた黒のジャケットを着て、グレンは壁に寄りかかった。ダグラスが、今度は戸棚やらテーブルやらを漁り始めたからである。
結局、魔法は使えないままだった。
原因は分からないのだという。これから元に戻す方法、そして魔界への帰還方法を探す。このお節介な大男とともに。
脳を支配する、このモヤモヤとした感情。魔法が使えないだけで、こんなに不安になるとは思わなかった。いや、そもそも魔法が使えなくなること自体、考えたこともなかった。魔界では魔法が使えない魔族など、魔物の餌にしてくださいと言うようなものだ。程度の差はあれど、人間界でもそれは同じだろう。実際、初めて遭った人間界のウルフに食われかけている。
では、これからどうやって戦ったら?
グレンは鼻を覆った。それにしても、臭う。
「何なんだよ、この部屋……毒薬でも作ってんのか」
「逆だよ、逆!」
間髪入れず、ダグラスが声を上げた。部屋の隅にある引き出しを漁っていたダグラスは、いくつかの小瓶を抱え、グレンのいる玄関に戻ってきた。
室内にところ狭しと置かれた植木鉢やプランターには、どれも植物が植えられている。
それだけじゃない。窓から見える庭も緑が生い茂っていて、太陽の光を浴びて輝いていた。
ダグラスは花やハーブの栽培が趣味で、それらを調合して薬を作るのが得意だった。生前、薬師として街の住民を支えていた彼の育ての親、ラグドールの影響だ。
「ハーブとか花の葉っぱ、根っことか使って、薬作ってんの」
「ハーブぅ?」
「魔界にはハーブってないの?」
言われて、玄関に置いてある植木鉢をじっと見た。
ハーブを知らないわけではない。だが、グレンにはその辺の雑草との違いが分からなかった。
この妙な匂いのする植物が、使い方次第で薬になるというのか。
しかし、スースーするような独特の匂いが鼻腔を刺激する。グレンは植木鉢から自然と距離を取った。
それを特に気に留めることもなく、ダグラスは口を開いた。
「そういえば、さっき怪我してたよね」
さっきというのは、洞窟で会ったときのことだ。
ウルフに襲われた際にできた擦り傷のことを覚えていて、ダグラスはグレンの肘を指差した。
差されたそこに視線を落として、ああ、とグレンは思い出したように言った。
血が出ていないので、まったく気にしていなかった。そもそもグレンにとって、少し血が出たくらいであっても怪我の部類には入らない。
そうは言うが、ダグラスは持っていた小瓶の中から一つを取り上げ、グレンに向かって掲げて見せた。若草色のクリームが閉じ込められたそれを片手に、徐々に距離を詰めてくる。
「い、いい、こんくらい。ほっときゃ治る」
その返事に不服そうなダグラスを尻目に、グレンはさっさと家を出ようとした。玄関のドアノブに手を掛け、逃げるように勢いよくドアを開ける。すると、
「うおっ」
「ひゃっ」
ドアの先の何かが悲鳴を上げた。
見ると、赤い服に金色のロッド、小さな手荷物を持った少女――神子のラカが尻餅をついていた。
いきなりドアが開いたものだから、驚いたのだろう。グレンの後ろからやってきたダグラスが手を伸ばした。
「大丈夫?」
「あ……ありがとう」
差し出された手を遠慮がちに掴み、ラカは立ち上がった。その顔色は白く、今にもふらりと倒れそうだ。そう考えていたグレンと目が合うと、ラカは顔を青くしてすぐに目を逸らした。
微妙な空気の流れる二人の横をするりと通り抜け、ダグラスは荷物を背負って声を上げた。
「じゃあ、出発!」
■ □ ■
――数刻前、支部でのこと。
ラカは血の気の引いた顔のまま立ち尽くした。
「ど、どういうことですか……?」
彼女の目の前には、アルクメリアの支部長がいる。
グレンの魔法が戻らない原因は、長年、アルクメリアに在籍していた支部長にも分からなかった。原因と解決策を見つけるには、どこか別の地でそれを探る必要があることを聞かされた。そこまでは理解できた。
……だが。
「言ったとおりじゃ。神子にも旅に同行し、それを探ってきてもらう」
その言葉に、ラカは顔を青ざめさせ、ぱくぱくと口を開閉させた。
無理です、そう言いたいのに、声が出ない。魔族が恐い。ラカの脳裏に、グレンの剣幕が蘇る。
「ひどく魔族嫌いの神子がいると聞いたことがあるが、お主のことじゃな。魔族ではあるが、彼もまた、お主と同じ『ヒト』じゃ。原因は分からぬが、魔法が使えなくなったのはお主が関係している可能性もある」
「で、でも……私では、何かあったときに対処しきれないです」
「何か、とは?」
フサフサの白い眉をついと上げて視線を向けられると、ラカは言葉を詰まらせた。
旅となれば道中、魔物に襲われることも珍しくない。戦いは苦手だが、相手がスライムほどの最下級の魔物であれば、それなりに撃退することはできる。しかし今、ラカが最も気に掛けていることはそれではなかった。
魔法が使えなくなったグレンの様子を目の当たりにして思った。下手をすれば、自分は殺されてしまうのではないだろうか。
しかし、それを打ち明けることはできず、ただ口を噤んだ。そんな心境を知ってか知らずか、支部長はふむと一つ頷いて、机上の書類を手に取った。
「ダグラスを傭兵として雇うと良い。魔族の者を引き連れてきた、あの背の高い男じゃ」
書類にペンを走らせ、何かを記入していく。傭兵ギルドへの依頼書を作成しているのだろう。「存じています」と言ったラカに、支部長は顔を上げて目を丸くした。
「幼なじみなんです」
最初は気付きませんでしたが、とラカは小さく付け加えた。
ラカとダグラスは、幼少期に同じ村で暮らしていた。会うのは十年ぶりくらいだろうか。当然のことだが、当時とは随分と体格が変わっていて驚いた。村にいた頃は、身長もダグラスのほうが少し高いくらいで、それほど差はなかったというのに。
それでも記憶の彼と噛み合ったのは、彼の持つ雰囲気がまったく変わっていなかったからだ。二人はよく一緒に遊んでいた。
ダグラスが一緒なら、と頷きかけて、そしてすぐにぶるぶると首を振った。ダグラスを巻き込むわけにはいかない。しかし、ドン、という音がしてそちらを見ると、支部長が最後の仕上げである判を押しているではないか。
書類を三つ折りにし、封筒に入れると、ラカに歩み寄ってそれを差し出した。
「幼なじみなら、其方も心強いじゃろう。契約金はこちらでギルドに払っておくから、心配することはない。これをこの街のギルドへ提出せい」
「い、いえ。ですが……」
言葉を濁すが、支部長が封筒を持った手を引くことはなかった。ラカが徐ろにそれを受け取ると、支部長は満足そうに笑った。
真っ白な面に黒いインクの滲んだ封筒を見つめて、ラカはそれを片手に静かに部屋を出た。