6│異変

 空は快晴。
 澄んだ高い空に浮かぶ太陽が、光を降らしながら大地を見下ろしている。
 一本道の先には深い森がある。そこに向かって、固く乾いた大地の上を歩いていた。道の傍には若草が生い茂り、日差しをたっぷりと浴びて生き生きとしているように見える。
 野の葉や花びらが風に舞う。気温は暑くも寒くもない。旅の始まりとしては絶好のコンディションだ。
……だというのに、赤い髪に尖った耳を持つ少年――グレンは、眉間に深く皺を刻んでいた。その視線は俯き気味で、街を出てからの道中、一言も発さずにただ黙々と歩いている。
 体調が悪いわけではない。単に、

「……眩しい……」

 それだけだった。

「眩しい?」

 先頭を歩いていた背の高い青年が振り返った。疑問符を浮かべながら首を傾げると、少し伸びた黒い髪が首元に流れた。
 彼――ダグラスが不思議に思うのも無理はない。太陽はまだ真上には届いていないし、日のある方角に歩いているわけでもない。良い天気だとは思うが。
 グレンはダグラスを睨むように顔を上げた。が、すぐにげんなりした様子で視線を落とした。少しでも顔を上げると、太陽の光が網膜を焼き切らんばかりに嬲ってくる。

「こんな日が照ってる中で、よく普通にしてられるな……」

 覇気のない声で呟いた。それがダグラスの耳には届かなかったらしい。え? と聞き返されたが、言い直すのも面倒なのでそのままにした。
 グレンの住んでいた世界は、昼でも夜のように暗い世界だった。太陽はあるが、日照時間が極端に短い。その影響か、緑に満ちた植物はほとんど生息していない。あるとすれば、いかにも呪術に使われそうな、禍々しい色形をしたものばかりだ。
 悪魔や魔女といった魔族が存在する世界、魔界。
 ただ歩いているだけで、ここが元いた場所とはまったくの別世界なのだと痛感する。グレンがこの世界で初めて遭遇したウルフさえ、魔界に存在するものとは別タイプのものだ。
 植物も魔物も、何もかもが違う。こうまで違うと、本当に魔界へ戻る方法が見つかるのか、不安になってくる。
 なぜか使えなくなってしまった魔法が戻るのかどうかも。

「ラカ、あんまり離れて歩くと、何かあったときに危ないんだけど……」

 ダグラスが振り返り、苦笑混じりに言った。
 華奢な身体に、ふんわりとした赤い服を纏った少女――ラカが慌てて距離を詰めた。
 一メートルほど近づいただろうか。元々五メートルは離れていたので、縮まった距離はほんの気持ち程度だ。
 それを尻目に見ながら、グレンは口先を尖らせた。
 魔族が苦手だというラカは、グレンに必要以上に近寄ろうとはしなかった。
 自分が『得体の知れないもの』として認識されていると思うと、どうにも腑に落ちない。
 得体の知れない恐怖、分からなくはないが……。
 グレンは、腰に下げたブロードソードに目をやった。
 ダグラスの顔馴染み、街の鍛冶師・エルダの店で買った剣。片手で扱えるその剣は、ダグラスの持っている剣と比べると随分と小柄だ。しかし、こちらの方がオーソドックスで、初心者に推奨する武器ということで、この剣を選んだ。
 魔法が使えないため、何かあったときのために武器になる物が必要だからと、ダグラスに要請したのだ。彼はアルクメリアから、旅のための資金を受け取っていた。
 剣など一度も扱ったことはないが、何も持たないで歩くよりはマシだ。
 今日から、剣が魔法の代わりになる。
 魔界にいた頃は、魔物と戦うのは日常茶飯事だったので、それ自体に抵抗はない。問題は、使いこなせるかということだけで。
 通り道となる森は目前だ。




 森を抜けて、少し歩いた先に大きな街がある。そこに、ラカに魔法の基礎を教えた師匠がいるらしい。
 アルクメリアに、封術師として所属していたこともあるという。つまり、ラカの先輩だ。その人物ならば、魔法が使えなくなった原因や解決策を知っているかもしれない。
 魔界への帰還方法については、何の手掛かりもない状態のため、旅をしながら情報収集することになった。
 グレンたちがいる場所から目的の街へ行くには、この森を通らなければならない。だが、ダグラスは何の躊躇いもなく足を踏み入れた。傭兵の仕事中、何度も通ったことのある森。深い森とはいえ、日の光は届くので、適度に明るい。舗装された道がある。何より、危険な魔物が生息していない、静かな森だからだ。
 少しでも危険である可能性があれば、遠回りにはなってしまうが、別の道を行くつもりだった。しかし、多くの商人や旅人が通るこの森。通り抜けるのに、今まで一度も危険な目に遭ったことはないし、そういう話を聞いたこともない。安全に関してはお墨付きというわけだ。
 そして何より……。
 ダグラスは振り返り、グレンとラカに目配せをした。
 アルクメリアの支部長からの依頼は、神子であるラカの護衛。しかし、グレンもいるので、実質的には二人分の護衛である。
 二人は知らないが、ダグラスは傭兵としての経験がまだ浅かった。ギルドに所属するようになってから、一年弱。やったことがある仕事といえば、隣町か、その隣の隣町までの護衛という、言わばお使い程度のもの。
 そんな新米であるのに加え、ダグラスは平和主義で、戦いがあまり得意ではない。危険な道はなるべく避けるべきと考えていた。彼が傭兵という不似合いな仕事をするようになったのにも、目的があるようだが……。
 森に入るやいなや、グレンが深々と安堵の溜め息をついた。降り注ぐ日の光で、目の奥がしきりにチカチカしていた。
 柔らかな木漏れ日が目に優しい。森を出るまでは、目を休められるだろう。
 入ってすぐの開けた場所に分かれ道があり、木でできた看板が立てかけられていた。左右に分かれた矢印の上に地名が書かれてあり、目的地に応じて道を選択する必要がある。ダグラスは、看板には目もくれずに左の道を進んだ。

「道なりに進めばすぐだよ」

 すぐ、とは言うが、目を凝らしても、先に見えるのは木々だけだ。
 道の傍には、赤地に白い水玉模様の小さなキノコ――口にするのは全力で遠慮したい――がぽこぽこと生えていて、何とも可愛らしい。白や水色の、名も知れない野花も所々に咲いており、穏やかな空間が広がっていた。
……が、グレンは辺りを見回した。何か違和感がある。その『何か』を見つけ出そうとして、意識を集中させる。すると、

「あっ」

 突然ダグラスが声を上げ、小走りに駆け出した。駆け寄った茂みで腰を屈め、摘み取った小さなそれをこちらに見せた。

「ベリーがなってる」

 赤々として、水分をたっぷり蓄えた野苺。これでもかというほど、たくさんの実を付けている。グレンは小さく息をついて、首を横に振った。
 違う。そんなことじゃない。もっと重大な、何か。
 再び思考を巡らせようとしたところで、地鳴りのような音がした。はっと顔を見合わせる、ラカとダグラス。次に、その視線がグレンへと注がれた。
 魔物の唸り声を思わせるような音は、グレンの腹から鳴り響いていた。

「…………」
「食べる?」

 街で口にした果物以外、何も食べていないことを思い出した。暫し逡巡したあと、差し出された、親指ほどの小さな果実を口に含む。プチプチとした良い歯応えのあと、甘酸っぱい蜜が溢れて、舌の上に広がった。
 瑞々しく、みっちりと果肉の詰まった実。ごくりと飲み下して、改めて思う。魔界にある、砂のような果実とは大違いだ。胃がぎゅうっと収縮して、もっとよこせと訴えてくる。
 何か食べてくれば良かったね、そう言うダグラスも、摘み取ったいくつかのベリーを口にした。
 歩きながら、手当たり次第にもっさもっさ食べていると、黙ってそれを見ていたラカが突然大声を上げた。

「あっ!」
「うぇ、げほっ!」

 驚き、むせ込むグレンに、ラカはしまった、と口を押さえた。目に僅かながら涙を浮かべてラカを見ると、彼女が半歩ほど後ずさったように見えた。

「うぇ……何だよ、いきなり」
「ご、ごめんなさい。あの、今、手に持ってるの」

 ラカがグレンの手元を指差す。グレンが手に持っているのは、何の変哲もない普通のベリーだ。
 これが何だと言うのか。グレンが訝しげにラカを見ると、彼女は天敵にでも睨まれたかのように、うろうろと視線を彷徨わせた。胸の前でロッドを握り締め、一度深く息を吸うと、意を決したように顔を上げた。

「そのベリーは、他のと少し違うんです。食べるとお腹を壊してしまうかもしれません」
「えっ、そうなの?」

 驚きの声を上げたのはダグラスだ。グレンが手に持っている実を、二人して覗き込んだ。
 周囲になっている実と比べてみると、言われてみれば確かに。変わりはないと思ったが、連なった赤い粒のうちのいくつかに、極々小さな黒点がぽつぽつと浮かんでいる。
 ダグラスの問いに、ラカはこくりと頷いた。

「黒い小さな点があるものは毒なの。命に関わるような毒ではないけど」
「そうなんだぁ。うわー、良かった。食べちゃうところだったよ、グレン」
「お、お前だって知らなかっただろ!」

 顔が僅かに熱を持つ。グレンは話題の実をダグラスに投げつけた。それを避けるふりはするが、的が大きいダグラスが避けられるはずもない。なおもにこにこと表情を崩さないダグラスに、グレンは居心地悪そうに足元の小枝を蹴った。
 その様子に、ラカはきょとんとして目を瞬かせた。

「にしても、よく知ってるね」

 ダグラスが感心すると、ラカは曖昧に笑った。彼女もまた、毒入りベリーを食べてしまった経験があるからだ。
 食い意地が張っている……という表現は、年頃の彼女には相応しくないが、彼女は甘い物に目がなかった。野苺はあらかた採取済みなので、毒かそうでないかは大抵見分けられる。
 そんな体験談を語るわけにもいかず、ラカは乾いた笑いを浮かべていた。それを知ってか知らずか、ダグラスが突っ込んで聞き出そうとしてこなかったので、内心でほっと胸を撫で下ろした。
 歩きながら、グレンは周囲を見渡した。
 先ほどから感じていた、違和感の正体に気付いたのだ。

「なあ、静かすぎねえか」

 森に入るまでは、そこかしこから鳥の鳴き声が聞こえていたのに、それがない。微かな風が木々を揺らし、葉の擦れる音がするだけ。
 言われて、ダグラスも耳を澄ます。言われれば、まあ確かに。しかし、そう気にすることでもないだろうと、再度歩き始めたときだった。
 近くから、獣の低い唸り声が聞こえた。

「……また、グレンのお腹?」

 これが平和な街の中での会話だったら、グレンはダグラスをどついていただろう。が、ダグラスも気付いたらしい。背負った剣の柄に手を掛けて、口元をひくりと引きつらせた。
 グレンも剣を抜こうとする。しかし、ダグラスは首を横に振ってそれを制した。ガサガサと揺れる茂みに剣を向けて、口を閉ざしたまま森の奥を指差す。それは、今まで目指していた方角。森の出口。
 二人は距離を取れ、ということなのだろう。納得いかなかったが、グレンの背後には、突然のエンカウントに身を縮こまらせたラカもいる。グレンは大人しく従った。
 茂みから視線を逸らさずに後ずさる。やがて緑の中から覗いた、赤褐色の塊がダグラスに飛び掛かった。