7│収束

 鋭い爪が、白刃を目掛けて振り下ろされる。それを大剣で受け止め、ダグラスは衝撃を吸収するように後ろへ跳び退いた。
 ギラギラとした、魔物特有の獣じみた目が、怪しげな赤い光を灯してダグラスを見据える。太い両足で立ち上がると、2メートルを超える長身であるダグラスよりも巨大だった。低く唸ったかと思うと、威嚇のために両腕を高く振り上げ、地割れが起きそうなほどの咆哮を上げた。
 ウォールベア。
 赤褐色の毛並に黒く鋭い爪を持つ、壁のように巨大な熊の魔物である。……本来ならば。
 目の前にいるのは、後ろ足で直立して2メートルと少しの全長。確認されているこの種の中では小柄なほうだが、今のグレンたちがそれを知る由はない。
 牙を剥き出しにし、再度ダグラスに向かって腕を振りかぶった。あまり目は良くないらしい。空を切った爪をかいくぐり、空いた横っ腹を目掛けて刃を叩き込んだ。
 距離を取るように指示され、少し離れたところから見守っていた二人。どうやら、割と早くカタがつきそうだ。そうグレンが息をつこうとしたときだった。
 視界の端に、何かが飛びかかってくるのを捉え、グレンは咄嗟にラカを突き飛ばした。

「きゃ……!」

 短い悲鳴を上げ、ラカが地面の上を転がる。何が起きたのか。それを理解するために、彼女は臥したまま、先ほどまで立っていた場所を見上げた。
 グレンは鞘から剣を抜き、『それ』に向けた。ダグラスが対峙しているベアと、同じ魔物がもう一匹。赤く淀んだ目がゆっくりと向けられ、ラカの顔から血の気が引いていく。
 グレンは足元に転がっていた小石を素早く拾い上げ、ベアの背に向かって投げつけた。
 振り返ったベアが、グレンへとターゲットを変える。唸りながらジリジリと間合いを詰めてくる。グレンたちの前に立ち塞がる、さらなる魔物の出現に気付いたダグラスが短く叫んだ。

「逃げて!」

 グレンはベアから目を離さず、引きつった笑みを浮かべた。

(逃げろ、だと?)

 そんなことができるなら、一匹目が現れた時点でそうしているはずだ。そうせずに戦うことを選んだのは、ダグラス本人ではないか。
 恐らく、彼も分かっている。ベアは見た目によらず俊敏で、特別な条件でもなければ、人が逃げ切ることはめったにできない。それでも「逃げろ」と言ったのは、他に打開策が思い浮かばなかったから。
 剣先を向けたまま、未だその場から動かないグレンに、ダグラスは焦燥を露にした。しかし、目の前の手負いの獣は、なおもダグラスを仕留めようと鋭い爪を繰り出す。気を取られたダグラスの頬を掠め、小さな赤い線が走った。
 それを遠目に、グレンは頭上で大きく剣を振るうと、森の奥へ一気に駆け出した。ベアの注意を引くためだ。予想通り、逃げる獲物を追う獣の習性で、ベアは牙を剥き出しにしてグレンを追った。
 丈の短い草が生い茂る道を駆け抜ける。巨獣が背後から跳びかかってきたのを気配で察し、寸でのところで横へ跳んで回避した。ズン、と重い音がして、ベアは木の幹に正面衝突した。太い木にヒビが入るほどの衝撃。僅かにふらつきながら、なおも標的を探そうと体勢を整えるそれを、グレンは固く握った剣で下方から斜め上へと薙ぎ払った。

「グアアア!!」

 手応えアリ。野獣の咆哮を上げ、ベアが反撃を繰り出す。上体を捻って回避した。鋭い爪が左腕を掠め、血が滲む。グレンは舌打ちをした。
 魔法なら、一撃で終わらせられるのに。
 ベアの弱点は火だ。大した魔力を持たない彼らは、業火で焼いてしまえば一たまりもない。魔界では、丸焼きにして食事にするのは日常茶飯事だった。野蛮に思うかもしれないが、魔界の住人にとっては当たり前の光景だ。
 魔法が使えない今は、剣一つで何とかするしかない。分かってはいても、焦りが募る。
 横薙ぎの爪を剣で受け止めた。しかし、その重みで身体の芯がぶれる。押し飛ばされるようにして、靴底が地面を滑った。
 追い打ちをかける爪が再び振り下ろされるのを確認して、剣を構える。
――反撃する隙があれば。
 歯を食いしばったとき、グレンは目を疑った。ベアの巨体で見えなかったが、その背後、少し離れたところに目立つ赤いローブが見えたのだ。
 爪と刃がぶつかり、ギリギリと押し切られそうになる。

「っ、くっそ……!」

 あいつ、何しに来たんだ!?
 先ほど、ベアの注意を逸らすために引き離してきたはずだ。
 そろそろと足音を立てないよう、こちらに近付いてくる。魔族を恐れるくせに、魔物の凶暴性が分からない馬鹿ではないはずだ。
 一向に逃げようとしない彼女に、苛立ちが募る。ベアに押し潰されそうになりながらも怒鳴り散らそうとしたとき、懐かしい感覚がした。
 はっとして、そちらを見る。僅かに視界に捉えたロッドの先端には、光が灯っていた。
――魔力が周囲に流れる、懐かしい感覚。
 グレンがラカを見ると、彼女はこくりと頷いた。その目に迷いはない。込み上げた笑いを口の端に乗せると、グレンは渾身の力でベアを払った。
 僅かに距離が空いたそのとき、グレンは叫んだ。

「――っいけ!」

 ラカがロッドを突き付けると、先端から炎が燃え盛った。噴き出した炎がベアの巨体を包む。もがき暴れ出すベアの腕をかいくぐって、グレンはその鳩尾深くに剣を突き入れた。
 足で蹴るのと同時に、剣を引き抜く。巨体が地面にどおっと倒れると、炎も次第に鎮火していった。
 グレンは地面に剣を刺し、深々と息を吐いて、膝に手をついた。
 汗が顎を伝って滴り落ちる。
……とりあえずは、ひと段落か。
 額に滲んだ汗を手の甲で拭って、顔を上げた。倒れたベアを挟んだその先に、力なく座り込んだラカがいた。ぼうっとしていたが、どこか怪我をしているわけではなさそうだ。
 彼女が視線に気付き、グレンのほうを見遣る。ばちりと目が合って、グレンは一瞬だけ息を詰めた。
 何と言ったら良いのだろう。一応は助けられたのだから、礼を言うべきなのだろうが。今までの彼女の反応を思い返すと、何を言っても怯えさせてしまう気がした。
 それ以前に、誰かに感謝の意を示すなど久しくしていない。それに気付いてしまうと、何となく気恥ずかしくなってしまって、グレンは押し黙った。眉間にこもる力で、難しい顔をしてしまっているのを自覚する。しかし、それを上手く隠せるほどの器用さもない。
 緊張の糸が緩んだせいか、忘れていた空腹感を思い出す。微妙な沈黙が続いたとき、再びグレンの腹の虫が盛大に騒ぎ出した。

「…………」

 この森一帯に響き渡ったのではないかというほどの、大きな音。生死を分ける戦いの後だとはとても思えない。
 一瞬呆気にとられたように、ポカンと口を開けていたラカだったが、次第にぷるぷると震えて俯き始めた。

「ふ、ふふっ……」

 今度はグレンが目を丸くする番だった。目の前の少女が、突然笑い出したのだから。

「な、何だよ」
「ご、ごめんなさい」

 謝りつつも、ラカの笑いは収まらない。怪訝な表情を浮かべ、ラカを見下ろしていると、グレンはあることに気が付いた。
 ラカのロッドを持つ手が、細かく震えていたのだ。
 彼女は、戦いを得意とするような人間ではないだろう。出会って間もないが、それだけは分かっていた。恐らくは、今回初めて剣で戦ったグレンよりも、不安を感じていたのではないか。
 グレンは黙ったまま、ラカに向かって手を差し出した。彼女は、グレンと差し出された手を交互に見て、やがてそっと手を伸ばした。掴まって立ち上がると、ガサガサと草を分ける音がして、二人は振り向いた。

「あっ、良かった。二人とも、怪我ない?」

 慌てた様子で駆け寄ってきたダグラス。彼が対峙していた魔物も片がついたのだろう。周囲を見渡して危険がないことを確認すると、剣を鞘に戻して二人を見た。

「良くねえよ、話と全然違うじゃねーか」

 グレンはダグラスに向かって悪態をついた。ダグラスは言葉を濁しながら苦笑した。
 魔物が棲みついていないということで、この森を通過することに決めたのはダグラスだ。
 彼が嘘をついたわけでも、勘違いをしたわけでもない。本来なら現れるはずのない魔物が現れて、三人は襲われた。これだけでは原因を特定することはできないが、ラカとダグラスには思い当たる節があった。

「……もしかして、これも『異変』なのかな……」

 ぽつりとラカが呟いた。それに対して、ダグラスは腕を組んで首を捻る。

「……とにかく、ギルドに報告しなきゃ。誰か他の人まで襲われたらまずいしね」

 冒険者は旅の道中、何か通常と異なった事象が起きた際は、ギルドへ報告するよう義務付けられている。
 たとえば今回のように、普段魔物が現れない場所での魔物との遭遇。他にも、生息している動植物や大気の異常などが挙げられる。今後その地を訪れる者たちへ注意喚起を促し、トラブルを未然に防ぐためだ。
 今回の場合、安全とされている場所で魔物に襲われたため、重要度はかなり高い。この森を通るほとんどの人が、従来の評判を信じて安全だと思い込んでいる。早急に報告する必要がありそうだ。
 静かな森に突如現れた、危険な魔物。ラカが呟いた『異変』という言葉。グレンには何が何やらさっぱりだった。

「……俺にも分かるように説明しろよ」

 グレンの言葉に、そうだね、とダグラスはぎこちなく笑って頷いた。
 森を出た先に目的の街がある。まずはそこへ着いてからだ。
 グレンとダグラスが歩き始める。そのグレンの後ろ姿を、ラカはじっと見つめていた。

「? どうしたの?」

 振り返ったダグラスに、ラカはふるふると首を振った。

「……ううん、何でもない!」

 彼女は二人の元へ駆け寄ると、後に続いて歩き出した。
 その表情は、街を出た当初よりも明るく澄んでいるように見えた。



【一章完】