1│休憩

 三人が街に着く頃には、空はすっかり夕焼けになっていた。

「腹減った……」

 グレンの力ない呟きに、ダグラスが「はいはい」と相槌を打つ。
 冒険者がそれなりに訪れるこの街は、夕方とはいえ、まだ落ち着いた賑わいを見せている。
 買い物を済ませ、家路に着く住民。仲間と談笑しながら酒場に向かう剣士。明日に備えて露店を畳む商人。
 程なくして着いた、一件の飲食店の前で、ダグラスは立ち止まった。

「まずは腹ごしらえ……と、言いたいところだけど」

 隣接する建物を指差す。盾の形をした看板を掲げるその建物は、傭兵ギルドだ。傭兵を雇いたい客の他、危険な地形や魔物を確認した冒険者が報告に集まる。
 情報は各地のギルドすべてで共有され、実際に目的地へ行く前に対策ができるという仕組みだ。

「先に、森で遭った魔物について報告しないと」
「もう無理……死ぬ……」
「そう言うと思って、先に行ってていいよ。オレも報告が終わったら行くから」

 もう一歩を踏み出すのも辛い。足を引きずるようにして歩く目の前で、ラカがドアを開けると、取り付けられたベルが賑やかな音を奏でた。
 店内はそれよりも賑やかだった。時刻もちょうど夕食時なので、人々が集まり出す頃合いだ。運良く一席だけ空いていた奥のテーブルに落ち着く。グレンは辺りを見回した。
 壁に提げられたランプが、オレンジ色の温かな光を生み出している。ダークブラウンで統一されたインテリア。踏み締めるとぎしりと軋む床は、年季が入ってはいるが、綺麗に磨かれて味を出していた。
 これほど人間が密集している場所へ入るのは初めてだった。しかし、それぞれ食事や会話に夢中らしく、グレンを気に留めるような者はいないらしい。

「良かった。みんな気付いてないみたい」

 ラカがぽつりと呟いた。彼女も、魔族であるグレンに周囲が騒めくのではないかと不安だったようだ。

「……あの、ごめんなさい」

 ラカが頭を下げた。顔を上げたあとも、伏し目がちに、テーブルの木目をじっと見つめている。
 何のことを言っているのか分からず、グレンは返す言葉を失った。黙って彼女の次の言葉を待っていると、ラカは気まずそうに口を開いた。

「魔法が使えなくなったの、多分、わたしが原因ですよね」

……ああ、そのことか。グレンは横目で店内の様子を見ながら、椅子の背に寄り掛かった。横の少し離れたテーブルで、冒険者風の酔っ払いがどんちゃん騒ぎをしている。

「……別に、もういいよ。わざとじゃないのは分かったし。あんたの意思でこうなったわけでもないだろ」

 そう言うと、ラカはぱちぱちと瞬きをして、不思議そうにグレンを見た。
 目を逸らしていても、刺さる視線を感覚が拾い上げる。いたたまれなくなり、グレンは向かいに座る彼女に視線を返した。

「何だよ」
「……森で、ちょっと気になったことがあるんですけど」

 ラカが言葉を区切ったとき、奥のテーブルの男たちが沸き立った。

「オメー、あん時と言ってることが違うじゃねーか!」
「そうかい? へへ、まぁどっちでも大して変わらねぇだろ」

 大声で下卑た笑い声を上げる男たち。周囲の客が居心地悪そうに肩を竦め、声を潜めるのに気付く様子はない。酔っ払っているためか、自分たちの声が店内に響き渡っているのに気付いていないようだった。
 客は皆、一瞬だけちらりと男たちを見て、何でもないかのように振る舞った。
 それもそのはず。
 男たちは、いずれも筋骨隆々でガタイが良い。スキンヘッドで髭面の男、顔や肩に大きな傷のある男。バトルアックスを片手で振り回しそうな男ばかりだ。

「うるせーな」

 それほど大きな声を放ったわけではない。そういうわけではないのだが。
 恐らく、声量としては普通の会話をする程度のものだった。それがたまたま少しだけ静かになった瞬間があり、その時に口から零れた。ただそれだけだ。
 男たちの数人、いや、その他の客大勢も含まれるかもしれない。数多の目が一斉にグレンに向けられた。
 中でも一番驚いていたのが、彼の目の前に座っていた少女だろう。翡翠色の目を真ん丸にして、口を開くが声が出ない。ぱくぱくと口を動かして、グレンと周囲とを交互に見た。

「何か言ったか? 坊主」

 グレンは周囲を見た。男が言葉を投げ掛けているのが自分らしいと、ようやく気付いた。あれだけ大声で話している男が、こちらの声など聞こえるはずもないと思っていたのだから。
 人間は、否定的なことに関してはなぜか地獄耳になるらしい。と、グレンはどうでも良いことを考えていた。

「別に。うるせえって言っただけだけど」
「ち、ち、ちょ……!」

 ラカは顔面蒼白で、グレンに手を伸ばした。ぶんぶんと手と首を横に振って、ジェスチャーをしてくる。何も言うな、ということらしい。しかし、時すでに遅い。

「ヘェ、面白い耳してるねぇ。おチビちゃん」

 男たちがゲラゲラと笑う。スキンヘッドの男が席を立ち、泥で汚れたブーツで床をずかずかと踏み鳴らして、グレンの前に立った。
 グレンの中で、何かがぷつりと音を立てて切れる。男を睨んで立ち上がると、その勢いで椅子がガタンとよろめいた。

「チビじゃねーよ!」

 誰がどう見ても、身長に関してはスキンヘッドのほうが一回り大きいのだが、それに突っ込む度胸のある客はいない。
 グレンはチビ呼ばわりされるのが嫌いだった。幼少の頃からそんなあだ名で呼んでくる、厄介な男が魔界にいるのだ。
 ラカがはっとして、店の入り口に首を伸ばす。見覚えのある長身が見え、安堵の表情を浮かべた。
 店に入るなり、異様な空気を感じ取った彼が店内を見渡す。連れが見知らぬ男にガンつけているのを見つけて、ぎょっとしてすぐさま傍に駆けつけた。

「うわー! ちょっ、ちょっと、ストップ!」

 急に間に割って入ってきたダグラスを、鬱陶しそうに睨むグレンと酔っ払いの男。男はダグラスの巨体に僅かに目を剥いたが、すぐにふてぶてしい態度で彼を見据えた。
 ダグラスは眉を吊り上げてグレンに向き直った。

「すぐ喧嘩しちゃ駄目だってば!」
「うるせえ奴にうるせーって言っただけだろうがよ」
「兄ちゃん、このおチビちゃんの保護者かい? 駄目だね、躾がなっちゃいねえや」
「チビじゃねえって言ってんだろが!」

 ダグラスの制止を振り払い、男に掴みかかるグレンと、ニヤニヤ笑いながら拳を構える男。周囲が騒然とする。客はどよめき、巻き添えを食いそうな席に着いていた客が慌てて逃げ出す。「いいぞ、やれやれ!」と、物騒な野次を飛ばす客もいた。
 どちらかの攻撃がヒットする前に止めなければと、ダグラスが再度グレンを引き戻そうとした時だった。
 鐘の鳴るような音が、けたたましく鳴り響いた。

「店ン中で喧嘩すんじゃねえ!」

 両手で耳を塞いでも頭に響く怒鳴り声。
 カウンターの向こうに大きな男が立っている。黒いエプロンをし、頭に手拭いを巻いた男。手には巨大なフライパンと、これまた大きなお玉を持っていた。余韻で震える調理器具を片手に引っ提げ、渦中のグレンたちをジロリと睨みつけた。
 彼がこの店のオーナーなのだろう。血の気の多い冒険者たちを相手に商売しているだけあって、威厳がある。

「喧嘩すんなら、外でしな! ……と言いたいところだが、街の人に迷惑が掛かっても困る。そこでだ」

 ぶすっとむくれているグレンと、 やれやれというように腰に手を当てている男を指差した。

「うちの伝統に従ってもらおうか。俺が出した料理を時間内に食べ切ったほうが勝ち。食べ切れなければ、代金を支払うこと」
「はぁ? 何で俺が……」

 グレンが難色を示す。決着をつけようとしていたのを、なぜ勝手に提示された方法で解決しなければならないのか。
 納得がいかず、店主を睨みつけるグレンを、スキンヘッドが鼻で笑った。

「嫌ならやらなきゃいい。勝負は目に見えてるしな。坊主より、そっちの兄ちゃんのほうが張り合いがあるってもんだ」

 急に話を振られたダグラスが、驚いて疑問符を漏らす。
 暗に身体が小さく、勝負にならないとからかわれているのだ。
 グレンの体格は平均的で、決して小さいわけではない。が、目の前にいる男やダグラスと比べられると、そう見えてしまうのは仕方のないことだ。
 テーブルをバンと叩き、男を下から睨んだ。

「やりゃいいんだろ!」



 この店では一年に一度、大食い大会が開催される。大食漢の猛者――稀に女性もいるが――が世界中から集まり、その年のトップを競う。
 今は臨時で急きょ行っているだけなので、参加者(半強制)はグレンとスキンヘッドの男だけ。……のはずが、物好きな客が数名飛び入り参加を希望し、店主がそれを許可した。そのため、規模は小さいが、ほぼ大会と変わらない有様になっている。
 噂を聞きつけて、街中から集まった見物客が、出入り口や窓から店内を覗き込んでいる。
 制限時間内に食べ切れなければ、喧嘩は両成敗。代金を支払い、即座に出て行ってもらう。
 料理が盛られた器は、人一人が座れるのではないかというほど巨大だった。眩いばかりの卵の上に、赤い調味料が乗っている。卵の下は、白い飯と炒めた玉葱、ウィンナーなどが刻まれて一緒くたになっていた。
 開始の合図で、参加者が一斉に料理を掻き込む。そんな中、グレンは目の前の皿の中身をスプーンでつついていた。魔界では見たことがない食べ物だった。恐る恐る、スプーンの三分の一ほどの量を掬って咀嚼する。目を瞬かせた。美味い。
 グラスになみなみと注がれた、ひやりと冷たい水で料理を胃に流し込む男たち。店内に声援が飛び交う。中でも、手を振り応援するダグラスは目立つ。店の出入り口の扉よりも背丈の高い男だ。客がちらちらとダグラスを振り返り、応援されていると思しき赤毛の少年を見て、隣人と何かを話している。喧騒が大きいので、何を話しているかは分からない。分からないが、良い話ではないだろう。彼らの視線が向けられていたのは、人間にはない長い耳だったのだから。

 知らない振りをして黙々と食べ続け、結局、すべて食べ切ったのはグレン一人のみだった。

 他の参加者が次々とリタイアしていくのを、グレンは手持ち無沙汰に見ていた。というのも、最初に食べ終えたのもグレンだったからだ。
 絡んできたスキンヘッドの男は、半分ほど食べ切ったところでリタイアした。一人で歩くこともままならず、代金を支払ったあと、仲間たちに抱えられるようにして店を出て行った。
 騒ぎを鎮めるために行ったイベントなので、勝ったからといって特別称えられるわけではない。グレンの食事代はタダになったが。
 興味津々に集まっていた野次馬も散り、店は当初の落ち着きを取り戻しつつあった。
 元のテーブルに着席すると、ラカとダグラスが心配そうに見ていた。

「……大丈夫?」
「? 何が」

 何のことやら分からないという風に、至って普通に返事をするグレンを、ダグラスは穴が空くほど見つめた。
 横に座っていたラカが、ダグラスにそっと耳打ちした。

「……これからの食事代、大丈夫かな」
「はは……」

 二人が抱いた不安を、グレンは知る由もない。
 ひそひそ話す二人を訝しげに見て、グラスの水をごくりと飲み下した。