2│訪問

 食事をしながら、グレンは二人から人間界に起こっている異変について聞いた。
 十年ほど前から、人間界各地で異変が起こっているという。
 動植物の生態系の変化、地方の砂漠化。湖の枯渇や、魔物の凶暴化など、挙げればキリがない。
 これらを、伝承にある魔王復活の前兆と考える人間も多い。そのため、近頃アルクメリアは、何者かによって行われている祭壇破壊の対策に躍起になっている。
 神子が祭壇に封印を施し、祭壇が人間界を守る。その祭壇を破壊する行為は、アルクメリアや多くの人々を敵に回すことと同義だった。
 もちろん、見回りや監視は行われているのだが。分かっているのは、それらを掻い潜って、正体を掴ませることすらなく実行する実力者がいるということだけ。
 監視に当たった人々は、みな共通して「突然、魔物に襲われた」と説明した。まるで祭壇から気を逸らせるために、誰かが仕組んでいるようだったという。
 グレンが迷い込んだ場所、村の離れ。そこには祭壇が安置されていた。ラカは封印を施すためにそこを訪れていて、偶然にも二人は出会った。ラカがグレンを気絶させてしまったのは、何の前触れもなく突然現れた彼に驚いたから。
 その時点で、祭壇は既に二つ破壊されていた。気が動転した彼女は、「ついに復活した魔王が、直々に祭壇へ手を下しにきた」と思い込んだらしい。それを聞いてグレンは脱力したが、ラカがどれほど魔族を恐れているかが分かる。
 しかし、魔界にいたグレンは魔王の存在など聞いたことがなかった。
 人間界では、創世の女神が魔王を封印した世界が魔界であると伝えられている。魔界にはそのような伝承はなかった。もしかしたら、アルクメリアの活動を支えるための、人間の単なる創作なのかもしれない。
 話をしているうち、人間界と魔界には共通点があることを知った。
 それは、異変が起こっているということ。ただし人間界と比べて、魔界の異変はかなり長期的なものだが。
 魔物の増殖、朝の来ない空。もう何百年も同じ状態を保ち、次第にそれが異変であるという意識が薄れていく。
 当たり前のようになってしまっているが、魔界にも人間界と同じような現象が起きているようだった。

「グレンがここに迷い込んだのも、何かの前触れだったりして」

 冗談っぽくダグラスが言った。

「まさか、そんなわけ」

 ない、とも言い切れないのかもしれない。
 この辺りは、まだ異変の報告がほとんどない。なのでラカもダグラスも安心しきっていたが、今後はどこへ行くにも警戒する必要がありそうだ。
 食事を終えると、三人は宿に向かった。二つ部屋を取り、ラカと別れる。安宿なので、小さなテーブルと椅子、ベッドしか備え付けられていなかったが、休息を取るには十分だった。
 窓から外を眺めると、丸く大きな月が、落ちてきそうなほど近くに浮かんでいた。
……月は、魔界も人間界も変わらないんだな。そう考えながら、グレンはぼんやりと空を見上げた。

「月に帰りたがってる狼みたい」

 ふいに後ろから声がして、グレンは振り返った。ダグラスはベッドの上にバッグの中身を広げていた。

「そういうおとぎ話があってね。人間界に落ちてしまった狼が、人間と協力して月に帰るっていう」
「……ふぅん」

 グレンの返事は気のないものだったが、ダグラスは気にする様子もなく笑った。

「来れたんだから、帰れるよ。早く方法、見つかるといいね」

 そんなに不安そうな、情けない顔をしていただろうか。ばつが悪くなり、グレンは返事もせずにベッドに横になった。ダグラスはそれを咎めることなく、バッグの整頓を再開した。



 夜を明かし、翌日、三人はこの街に住むラカの魔法の師匠の元を訪れた。
 家は住宅街にある、ごく普通の一軒家だった。扉をノックすると、ややあってから家の中から足音がして、軽い音を立てて扉が開かれた。

「はぁい。……あら!」
「先生、お久しぶりです。お元気でしたか?」

 ラカが、出てきた女性に挨拶する。この人が、ラカの魔法の師匠らしい。封術師でもあるので、祭壇を巡る旅も何度も経験しているそうだった。金髪のフワフワした髪を束ね、白いエプロンをしている。
 彼女はラカの姿を認めると、にっこりと笑って家に入るよう促した。が、ラカの後に続いて入ってきたグレンとダグラスを見て、驚いたように口元に手を当てた。

「あら、遊びにきたわけじゃなさそうね」
「突然すみません。お尋ねしたいことがあって」

 ダグラスが軽く頭を下げる。女性はダグラスを見上げたあと、次にグレンに目を向けた。
 女性は驚きに目を見開いて、グレンをまじまじと見つめた。居心地の悪さに、グレンは早々に目を逸らした。
 ラカが前に出て、慌ててその視線を遮った。

「封術のこと、もっと教えてください」



 封術を使える人間は少ない。その能力が先天的なものなのか、後天的なものなのかも分かっていない。何せ、古くから封術師は希少な存在だったと伝えられているから。
 女性――エレナは三人を客間に通し、人数分のお茶を用意して、席に着いた。

「……それで、封術を解いたにも関わらず、魔法が使えなくなってしまった、と」

 ラカはエレナに経緯を説明した。その間も、エレナが物珍しそうに視線を寄越すので、グレンは落ち着かないことこの上なかった。
 いつもなら睨み返したり、文句の一つも言うところだが。ラカの師である彼女なら、何か重要な鍵を握っている可能性はある。グレンは何も言わず、ただひたすら我慢していた。

「ごめんなさいね。魔族って初めて見たものだから、びっくりして」
「先生も、見たことないんですか?」

 ラカの問いに、エレナはティーカップを手に取った。カップの中身は、透き通った琥珀色の紅茶だ。

「人間に紛れて暮らしている、という噂はあるけどね。変装が上手なのか、旅をしていても会ったことはないわ。……それにしても」

 カップをテーブルに置き、エレナはずいと身を乗り出した。突然顔を覗き込まれたグレンがたじろぐ。しかし、左右にラカとダグラス、背後はソファーの背もたれに阻まれて、逃げ場所はない。

「魔族って、本当に耳が尖っているのね。身体のどこかに紋様が入っているって伝えられているけど、貴方の場合は額……ねえ、どうして貴方は人間の姿に化けないの?」
「……は?」

 エレナの勢いに気圧されて、グレンは息を飲んだ。興味津々といったように目が輝いている。今までの人間とはまた違った反応だ。戸惑いつつも、グレンは彼女を見据えた。

「悪魔とか、魔女とか……『人であって人じゃない』種族は、そういう術が使えるけど。俺は普通の魔族だから」
「なぁんだ……そうなのね」

 目に見えて大人しくなり、エレナはソファーに引っ込んだ。
 あからさまにがっかりされ、グレンは少しだけ腹が立った。勘違いされるのも嫌だが。
 魔族なら誰しもが持つ紋様は、魔力の扉になっている。
 そこに封術師が衝撃を与えると、魔力を封じることができるので、悪魔や魔女と相対するときはそこを狙う。
 術師が命を落としてしまった場合や、術を解除することで、魔法は元通り使用可能になる。しかしグレンのように、ラカが術を解いたはずなのに未だ魔法が使えないというのは、どういうことなのか。そこが最大の疑問だった。

「でも、困ったわね」

 エレナが溜め息をついた。

「私、少し前から封術が使えなくなってしまって。アルクメリアも引退しようと、昨日この街の支部に出向いたところだったの」
「え……えぇっ!?」

 ラカが勢い良く立ち上がった。封術が使えなくなるなんて、初耳だったのだ。

「原因は分からないんだけどね。ただ封術が使えないと、祭壇を巡ってもどうしようもないから」
「そ、そんな……」

 ラカが力なく呟く。ソファーに腰を落として、透き通ったカップの底に目を落とした。
 ラカにとって、エレナは魔法の師であると同時に、封術の先輩でもあった。アルクメリアで唯一身近に感じられる存在だったために、突然の引退を信じられないのだろう。

「封術に関しては、もうアドバイスできないのよ。せっかく訪ねてきてくれたのに、ごめんなさいね」
「いえ。こちらこそ、突然お邪魔してしまってすみませんでした」

 未だ放心状態のラカに代わり、ダグラスが慌てて頭を下げる。しかし、エレナがはっと思い出したように手を打った。

「そうだわ。手掛かりになるかどうか分からないけど。アルクメリアの依頼を受けてみない?」
「依頼……ですか?」

 ラカが聞くと、エレナがこくりと頷いた。

「封術が使えなくなってしまったから、私は断ってしまったんだけど。昨日支部に行ったら、隣町の祭壇まで調査に行ってほしいっていう依頼があったの」

 エレナの話によると。祭壇の破壊を防ぐために、アルクメリアが隣町へ見張りを派遣したらしい。
 到着したら、祭壇の封印の状況を連絡するという手筈だったのだが、一向に連絡がない。様子を見に行った者も戻ってこないというのだ。
 一見、魔法が使えない謎とは何の関係もなさそうなこの話。しかし、グレンはテーブルをじっと見つめたまま動かなかった。
 祭壇は、悪魔や魔女の侵入を防ぐ。もし、その封印が弱まっていたとしたら、人間界にいてはいけない『何か』がいるということになる。
 そして、派遣された人々が連絡もせず、戻ってもこないということは。

「魔族が邪魔してる可能性がある、ってことか」

 グレンの呟きに、エレナは深く頷いた。

「魔法のことは、人間なんかより魔族のほうが詳しそうでしょ?」
「簡単に言ってくれるけどな……」

 グレンは渋った。
 人間にちょっかいをかけるのは、恐らく悪魔か魔女だ。彼らとまともに話ができるとは思えない。それはアルクメリアに所属していたエレナも分かっているはずだ。
 会話で人の心の隙に入り込み、魂を奪ったり生気を吸い取ったりする種族。
「魔族同士なら大丈夫じゃないの?」と軽く言うエレナに「そんな訳あるか」と突っ込む。魔族も彼らには手を焼いているのだ。できることなら関わりたくない。

「いいじゃん。行ってみようよ」

 空っぽになったカップを置いて、ダグラスがあっけらかんと言った。

「お前、話聞いてた?」
「だってさ、上手くすれば、魔界に帰る方法も分かるかもしれないんだよ。ついでに、何で魔法が使えないのかも教えてもらえたら、一石二鳥だし」

 グレンはげんなりした顔でダグラスを見た。この二人は能天気すぎて、話が通じそうにない。
 しかし、思わぬ人物が話を決定づけた。

「私、行ってみます」

 グレンは思わず振り返った。声を発したのは、まっすぐにエレナを見つめているラカだった。

「ごめんね。ダグもついてきてくれる?」
「オレは、ラカが行くところについていくよ」

 にこりと笑うダグラスにつられて、ラカも微笑んだ。しかし、その表情は固く、空元気だということが分かる。

「先生、教えてくださって、ありがとうございました」
「また来てね。今度は遊びに」

 そう言うエレナに、ラカは「はい」と返事をして立ち上がった。