5│少女

「ううぐぐぐ……!!」

 屋敷の外、穴の開いたレンガの壁。
 そこに残されたダグラスは一人、未だ自らの身体を囲う壁と格闘していた。

「はぁ、駄目だ……」

 ぐったりと手足を投げ出して、何度目かも分からない弱音を吐く。
 グレンたちが屋敷へ乗り込んでいってからというもの、ダグラスとて何もせず黙っていたわけではない。何度も自力で脱出を試みていた。
 ただ、成果のほうは今一つだったが。最初よりも肩が動かせるようになった、気はする。何となく。
 これでは、何のために同行してきたのか分からない。護衛が聞いて呆れる。もっと普通の、グレンと同じくらいの体格だったら、つっかえることもなかっただろうに。
 そもそもダグラスは、元から今のように体格が優れていたわけではなかった。それこそ数年前までは、街で見る普通の人と同じような体格だった。それが突然、あれよあれよと成長し、今のようになってしまった。以前も少しだけ旅をしていたことがあるが、どんな大きな街でも、今のダグラスほどの巨体を持った人は見たことがない。
 親族の遺伝、という可能性も考えたことはある。しかし、ダグラスは血の繋がった家族を知らなかった。緑に囲まれた村で拾われ、その村に住む老夫、薬師のラグドールに育てられた。ラカと出会ったのも同じ場所だ。
 幼少期はラカと同じくらいの背丈の、普通の少年だったというのに、こうなることを誰が予測できただろう。背丈だけでなく、力も強くなった。以前扱っていた片手剣を扱うには力が強くなりすぎて、両手持ちの大剣を扱うようになった。
 傭兵として護衛した客からは、目立つので待ち合わせに便利だと言われたことがあるが、その度にダグラスは苦笑した。サイズの合う服はほとんど売っていないし、寝るときはベッドの尺が足りず丸まって寝なければならないし。嬉しくないことのほうが多いとダグラスは思う。
 グレンとラカは大丈夫だろうか。ラカはあんな性格だし、グレンだってまだ剣に十分には慣れていないはず。
 何が何でも護衛をしなければならないのに、この体たらく。

「あー、もう!」

 ダグラスの叫びは、夜の闇に吸い込まれていった。
 そのとき。
 足音が聞こえ、ダグラスは耳をそばだてた。背後から、人一人分の足音。
 誰だろう。村の誰かが様子を見にきたのだろうか。いや、村の近郊とはいえ、こんな時間に一人で来るのはおかしい。
 足音はダグラスの背後で止まった。何か声を掛けるべきなのだろうが、姿が見えない上に壁にはまった状態で掛ける言葉というのは、なかなか思い付くものではない。

「あ、あのー……」

 ダグラスが悩んでいると、穏やかだった夜の空に、ビュン! と突風が吹き抜けた。
 目に軽い痛みを感じ、涙が浮かぶ。砂埃か何か、塵が入ってしまったらしい。何度も目を瞬いているダグラスの目の前に影が落ち、トンと何かが降り立った。
 滲む視界に捉えたのは、すらりと伸びた人の足。華奢なヒールの靴をふらつくことなく履きこなしている。見上げて、ダグラスは目を疑った。
 ボリュームのあるスカートに、大胆に背中の開いた服。ふんわりとウェーブのかかった、栗色の豊かな髪を揺らすその姿は、顔は見えないものの見間違いようがない。たった一人の少女だ。
 なぜ、こんなところに。そもそも、どうやってこの塀を飛び越えたのか。いろんな疑問が浮かんでは消えていく。そうしているうちに彼女は、ダグラスのほうを振り返ることなく、スタスタと屋敷に向かって歩き出した。

「ち、ちょっと!」

 ダグラスの声に、少女はぴたりと足を止め、振り返った。やはり、村にいた人ではない。月明かりに照らされたその容貌に、ダグラスは息を飲んだ。
 高温を孕んだ金属のように鮮やかな双眸。意思の固そうな、真一文字に結んだ唇。何よりダグラスの目を奪ったのは、彼女の両耳だった。
 彼女はグレンと同じ耳をしていたのだ。先の尖った、人間とは異なる長い耳。
 魔族?
 一度に多くの疑問が浮かぶと、人はどれから消化していくべきか判断がつかなくなる。
 呼び止めたは良いものの、どの疑問を投げ掛けるべきか分からなくなり、ダグラスは固まった。少女はぴくりとも表情を変えずにダグラスを見下ろしていたが、やがて踵を返し、再び屋敷の入り口へ向かおうとした。

「あっ、待って!」

 こう何度も呼び止められては、さすがに怒るだろうかと少し思ったが、少女は相変わらずの無表情でこちらを振り返った。ポーカーフェイスなだけかもしれないが、ダグラスはほっと小さく息を吐いた。

「えっと、……一人で行くのは危ないよ」

 結局出てきた言葉は、考えていたこととはまったく無関係の内容だった。

「……あなたも一人のようですが」

 初めて少女が口を開いた。表情と同じく、感情の読み取りにくい、あまり抑揚のない声色だった。
 事情を知らなければ、誰が見てもダグラスが一人で来たと思うだろう。
 なるほど、そう言われれば確かに。少女は一人で納得しているダグラスを黙って見ていた。

「いや、俺は仲間がいて、動けなくなっちゃったから、ここに残ってるだけなんだけど」

 見たところ、武器も何も持っていない。魔物は日中よりも夜のほうが活発になり、凶暴化するのを知らないわけではないだろう。この屋敷に何かが棲みついているのを知らなくとも、ここに来るまでの道中に一切危険がなかったとは考えにくい。
 少女はダグラスの嵌った塀をじっと見た。

「手伝いましょうか」
「…………え?」

 ダグラスは思わず聞き返した。
 もしかして、村の人に教えてくれるということだろうか。いや、気持ちはありがたいが、この状態はあまりにも間抜けすぎる。それに、村にいる女性の力だけでは恐らくどうにもならないだろう。
 ダグラスをよそに、彼女は靴が土で汚れるのも構わず、つま先で自らを囲むように円を描き始めた。
 大きな円を描くと、その上に両手をかざし、何事か唱え始めた。
 それに呼応して、円から光が溢れ出す。最初は地面に滲んでいるだけのようだった光が、詠唱に合わせて強さを増していった。
 円を中心に風が吹き始め、周囲の草花がザワザワと音を立てる。直後に地鳴りがして、ダグラスは身を固くした。
 円の描かれた地面が、ボコボコと盛り上がってきたのだ。小さな山のようになったそれは、みるみる大きくなり、ダグラスが地面に這いつくばっていなくとも見上げる大きさだ。
 土の山だと思ったそれに、二本の足ができていた。その上には胴、二本の腕。距離が近すぎて見にくいが、天辺にはやはり土でできた頭がちょこんと乗っている。
 人の形。
 ダグラスは天を仰ぎながら息を飲んだ。
 これは魔法だ。
 それも、ただの魔法じゃない。魔族のみが使えると言われている召喚術。
 初めて見る術の迫力に圧倒され、ダグラスは身動ぎすらできなかった。ズン、と大地が揺れ、はっと我に返った。
 ゴーレムはレンガの塀を掴むと、軽々と宙へ持ち上げた。ダグラスの頭上に大量の土が降る。が、身体に感じていた窮屈さは消えていた。
 土が顔に掛かり、土の味が口腔に広がる。口の中に入ってしまったらしい。慌てて吐き出しながらも、ダグラスは巨人の行動を見守った。
 持ち上げられたレンガのいくつかは自重に耐え切れず、ボロボロと崩れて地上に墜落する。落下したレンガが地面にめり込んだのを見て、ダグラスは自由になった手足を動かし、脱兎の如くその場を離れた。
 頭にでも落ちたら一たまりもない。手足でも無事では済まないだろう。
 ダグラスがいなくなったのを知ってか知らずか、ゴーレムはやがてゆっくりと塀を元の位置に降ろし始めた。が、見た目のとおり、細かい作業は苦手なようだ。降ろしたのは良いが、バランスが悪かった塀は傾き、当然のように横倒しになって倒壊した。
 地響きが全身に伝わる。
 元が塀だったとは分からないほど、原形を留めることなく地面に散乱した。

「す、すご……」

 呆気に取られて呟くと、ゴーレムは召喚されたときと同じように、ゆっくりと地面に沈んでいった。人の形はただの土塊に変わり、足元から地面と同化していった。
 散らばったレンガ以外、何事もなかったかのような静寂が戻った。ダグラスが振り返ると、先ほどまでそこにあったはずの人影はどこにも見当たらなかった。

「あ、あれ?」

 四方どこを見渡しても、少女はいない。
 ギイと音がして、ダグラスは背後を振り返った。
 閉まっていたはずの屋敷の扉が開いている。半開きになったままの扉が風に揺れ、誘い込むように微かに鳴いていた。
 地面に転がっていた大剣とカンテラを拾い、ダグラスは扉の奥を覗き込んだ。
 やはり少女の姿はなかったが、屋敷に入っていったとみて間違いないだろう。
 それにしても。初めて召喚術を目の当たりにして、ダグラスの心臓はまだ高鳴っていた。
 あんな強力な魔法を操れるのなら、丸腰で旅をしているのも頷ける。この屋敷に何の目的があるのかは謎だが。
 あ、そうか!
 彼女に魔界への帰り方を聞けば良かったんじゃないか?

「どこに行ったんだろう…」

 踏み締めると、年季の入った床がギシリと悲鳴を上げる。
 カンテラをかざして、ダグラスは床に残された複数の足跡を頼りに、近くのドアを開けた。

* * *

 グレンはふっと顔を上げ、辺りを見回した。

「ど、どうしたの」
「今、音がしなかったか。何かが崩れるような」
「や、やめてよ……!」

 胸の前でロッドを強く握り締めているラカは、今にも泣きそうな声を上げた。
 グレンは肩を竦め、ラカを一瞥したあと、上階へ続く階段に足を踏み入れた。

「お前、そんなんでよく神子なんてやってるな」

 魔界に住んでいたグレンには、ラカがここまで怯える理由がいまいち分からなかった。常に薄暗く、人や魔物のみならず、悪魔もいる世界。
 悪魔に遭遇したからといって、彼らもすぐに人をどうこうできるわけではないし(実体がないので、会話で取り入ろうとする分、こちらに猶予があるからだ)。

「だって、声が聞こえるから」

 ラカがぽつりと言った。

「声ぇ?」
「前は聞こえなかったのに、こういう所に来ると、人じゃないものが話しかけてくるの。こっちにおいで、って。それで」

 言いかけて、ラカは一度口を閉じた。言葉を飲み込むと、少し考えるようにして目を伏せた。

「それで、悪魔が恐くなって」

『魔族』と言いそうになったのだろうが、グレンが悪魔と同族にされるのを嫌うことを寸前で思い出したのだろう。
 ああ、とグレンは唸った。

「確かに、あいつらがよくやる手だよ」

 しかし、グレンには引っかかることがあった。
 悪魔は、強い力を秘めている者に好んで語りかける。
 ならばなぜ、ただの人間であるラカに声が聞こえるのだろう。
 封術という特殊な力を持つ神子だからだろうか。