7│不測

 鞘に収めたままの大剣を目前に、男は片手を突きつけた。ごうっと風が唸るような音がして、衝撃波が放たれる。
 ダグラスの大剣はその勢いに流され、後方へ吹き飛んだ。それを見て、男はほくそ笑むが。
 武器が手元から離れれば、攻撃手段はなくなる。突撃できなくなり踏みとどまるかと思われたが、その予想は覆された。

『ぐぇっ!』

 ダグラスの体当たりを食らい、男は潰れたような声を上げた。
 床に押さえ付けられた男がじたばたともがくが、見た目どおり、ダグラスの力は並ではない。上から押さえ付けられれば、大抵の人間は身動きできなくなる。
 時間を稼げとは言ったが、あまりにも強引な行動に、グレンはヒヤリとした。
 意識が戻ったあと、たとえ男の肋骨が折れていたとしても、悪魔が暴れたせいだということにしよう。
 傍に駆け寄って、グレンは男の前に膝をついた。紋様を探そうと手を伸ばしたグレンを、男が睨みつける。そしてクッと笑みを零した。

『いいのかい?』
「あ?」
『こいつの身体が燃え尽きても』

 グレンは、押さえ付けられた男を見下ろした。男の手のひらは彼自身の腰に押し付けられている。こちらに向ければ、魔法を使われる可能性があるからだ。
 もしこの状態で炎の魔法を使えば、男は焼け死ぬだろう。つまり、自爆。しかし、悪魔は憑依体を失うだけなので、痛くも痒くもない。
 紋様に打撃を与えないと、悪魔は消滅しない。男が命を落とすだけになる。

「……おい!」

 動揺したのか、ダグラスが拘束を緩めた。グレンが声を張り上げるが、もう遅い。
 耳を裂くような笑い声を上げて、男は自身の周囲に突風を起こした。強力な風圧に吹き飛ばされ、二人は壁に打ち付けられた。
 グレンが顔を上げる。剣を取ろうと床を探るが、どこにもない。
 金属音がして、そちらを見ると、男が足元に転がっていた剣を横へ蹴っ飛ばしていた。

『手こずらせやがって!』

 今までとは比べ物にならないほどの魔力が、男の両手に集結していく。両の手のひらの間に、パチパチと小さな火が集まって、次第に大きな火の玉となった。
 男はそれをこちらに向けた。薄ら笑いを浮かべて、グレン目掛けて放とうと振りかぶった。
 ダグラスがグレンの元へ駈け出したときだった。男の手の内にあった火の玉が、スッと消えてなくなった。
 男はふらりとよろめいて、突然前のめりに昏倒した。
 何が起きたのか。そこにいる者全員が目を見張って、動かなくなった男を見る。すると。
 男の首の辺りがもぞりと動いた。ひょこりと頭をもたげたそれは、黒く細長いロープのような身体をした生物。

――蛇?

 グレンはその生物の存在を認めると、男のうなじを見た。フードで隠れていたそこには、グレンが探していた黒い紋様。そしてその上に、何かに咬まれたような小さな跡があった。
 この蛇が紋様を咬んだことで、男に取り憑いていた悪魔が消滅したのだろう。紋様は、砂が風に吹かれるようにすうっと消えていった。
 蛇が男から離れて床を這う。グレンたちが身構えるが、蛇はそれを気にする様子もなく移動した。
 その先は、出入り口のドア。見ると、いつの間にやら見知らぬ人物が物も言わずに立っているではないか。ラカに至っては、短く悲鳴を上げてしまった。
 ふわふわとした茶髪を二つ結びにしている少女。その耳が自身と同じ形状をしているのを見て、グレンは目を見張った。

「あ。あの時の」

 そう声を発したのはダグラスだ。少女はダグラスを一瞥すると、ふいと向きを変え、正面を見据えた。
 彼女の視線の先には、埋め込まれた石が弱々しく光を放つ祭壇がある。
 蛇はしゅるりと少女の身体に飛び移り、首元に鎮座した。その様子は、まるでよく躾けられたペットのようだ。
 少女は一言も発さないまま、つかつかと祭壇へ歩み寄った。
 その時、辺りがぐにゃりと歪み始めた。悪魔の魔法が解け、その産物だったこの建物が、元の形に戻りつつあるのだろう。
 歪む視界の中で、グレンは少女の姿を捕らえた。祭壇の前に立ち、おもむろに左手を突き出すと、その手に光が集まり始める。

「駄目!」

 ラカが叫んだ。しかし、まるでその声が聞こえていないかのように、少女は振り向きもせずに祭壇だけを見つめている。
 一瞬、目の眩むほどの光が放たれたかと思うと、ガラガラと音を立てて祭壇が崩れた。それとほぼ同時、歪んだ視界が真っ暗になり、グレンたちはただ、祭壇の崩れる音だけを聞いていた。





「ここは……」

 目を開けると、そこはさっきまでいた薄汚れた部屋ではなかった。
 少し色褪せているが、小綺麗な絨毯。壁に等間隔で並んでいる燭台。そのどれもに見覚えがあり、グレンは気付いた。
 悪魔の術が解けた。そのため、この部屋が本来の建物の姿なのだろう。窓からは光が射し込んでいる。いつの間にか夜が明けたらしい。
 祭壇を見ると、やはり粉々に砕け散っていた。

「グレン、ラカ、大丈夫?」

 傍に駆け寄ってきたダグラスが尋ねた。
 ラカがそれに頷く。床にうずくまっていた子どもたちにも怪我はない。

「大丈夫。でも、祭壇が……」

 ラカは崩壊した祭壇を見遣った。
 周囲を見渡しても、あの魔族の少女の姿はなかった。祭壇を破壊し、どこかへ行ってしまったのか。
 その時、人の微かな呻き声がして、グレンたちは一斉に振り向いた。

「うう……ここは、一体……?」

 そう呟いて、ゆっくりと身体を起こしたのは、悪魔に身体を乗っ取られていた男だ。頭を二、三度振り、辺りを見回している。
 グレンの姿を見て、僅かに表情を強張らせたが、ラカたち人間の存在も認めると、戸惑ったような表情を浮かべた。

「あなたは、神子?」
「はい。二名が調査に行ったまま戻ってこないと聞いて来ました。もう一人の方は……?」
「調査……そうだ、祭壇の封印が弱まっていて、悪魔が語りかけてきて……!」

 痛むのか、男は頭を押さえながら言った。
 すると、ガチャリとドアの開く音がした。出入り口のドアではない。崩れた祭壇の傍にあった、小さなドアからだった。
 恐る恐るというように出てきたのは、アイボリー色のローブを身に付けた男。アルクメリアから派遣されたもう一人の人物だ。

「あ! 父ちゃんだ!」

 ラカの傍にいた少年はそう叫ぶと、続いてドアから出てきた人物に向かって駆け出した。
 そのドアから出てきたのは二人だけではない。他の子どもたちも親の姿を見つけて走り出した。
 村の住人と思われる複数の男たちは、状況が読めていないような顔をしていたが、子どもたちの姿を見た途端に破顔した。
 泣きじゃくる子どもと、それを抱き締める親を見て、グレンはぐったりとその場に座り込んだ。

「疲れた……」

 ダグラスはそれに苦笑し、ラカは再会を喜ぶ人々を眩しそうに眺めた。

「みんな無事で良かった」

 とりあえずは、一段落か。
 窓から射し込む朝日が室内を満たしている。
 人々の泣き笑う声がひとしきり続いたあと、一同は祭壇を後にした。




■ □ ■

 いなくなった子や男たちの無事を知り、村で待っていた女性らは皆歓喜した。
 グレンたちは手厚くもてなされ、その日は村に滞在することになった。
 村の集会や、旅人の宿泊場所として使われているこの家。村人たちが是非ともお礼をしたいと言い、グレンたちの目の前には数々のご馳走が用意された。
 テーブルから溢れんばかりの料理は、並の人間では到底平らげられないほどの質量だったが、そのすべてが空になり、村人たちを驚かせた(言うまでもなく、8割程度はグレンの腹に収まった)。
 最初は魔族であるグレンに驚いていた人々だが、今やすっかり馴染んでいる。
 なぜ人間界に来たのか、魔界はどういう所なのか、そんな質問をしてくる者もいた。
 色とりどりの料理に、笑う人々、温かい空間。それらにほとんど免疫がないグレンは、首の後ろ辺りがなぜだか無性にムズムズして仕方なかった。


 夜が更けると、村人たちは皆、それぞれの家へと帰っていった。
 静まった夜には、扉を開ける音さえ大きく聞こえる。グレンは極力静かにドアノブを捻ると、そっと借宿を抜け出した。
 体温の上がった肌を夜風が撫でるのが心地良い。濃紺色の空を仰ぎ見ると、白い星がポツポツと浮かんでいる。
 借宿の壁にもたれて、深く息を吐き出した。そうして、あの屋敷での出来事を思い出していた。
 悪魔と対峙しているとき、突然現れた少女。
 あれは間違いなく魔族だった。そして、あの落ち着きよう。恐らく彼女は、グレンのように知らず知らずのうちに人間界へ来てしまったのではなく、何か目的があってこの世界へ来ている。
 さらに、憶測ではあるが、帰る方法も恐らく知っている。
 目的。祭壇を壊していなくなったが、それが目的なのだろうか。
 そして。
 グレンが気になっていることは、もう一つ。悪魔に言われた一言だった。

「エッジが見えない、か……」

 エッジとは、人や動植物など、命あるものすべてが持っている『エネルギー』のようなものだ。
 個体によって、その強さや流れは大きく異なる。だが、生物が持つほとんどは、白く輝く光の欠片のようだと伝えられている。
 普通の人には、特殊な状況下でないとエッジを目視することはできない。それができるのは、悪魔など『人ではない存在』と、精霊に近しい者だけ。
 悪魔の戯言など、普段なら気にも留めない。大抵が人を陥れるための虚言だと知っているからだ。
 それでもその言葉に引っかかるのは、今、自分が原因不明に魔法を使えない状況に陥っているからだろう。
 エッジは魔法にも関与する。
 呪いとやらが、エッジに影響を与えているのだとすれば、一体何が原因でそうなったのか。

「分かんねえな……」

 グレンの独り言は、夜の闇の中に落ちていった。
 瞬く星々を見上げて、グレンは深く息を吐くと、明日に備えるため借宿の扉に手を掛けた。



【二章完】