1│市場

「遅い!」
「うわっ!」

 グレンの剣が、ダグラスの右腕を『叩き』そうになったのを、ダグラスは寸でのところで避けた。飛び退いて距離をとると、手にしていた大剣を地面に放り、膝に手を付いて項垂れた。

「疲れた! もう休憩しよ!」

 その言葉に不満の声を漏らしたのはグレンだ。

「お前、真面目にやってねえだろ!」
「やってるよ!」

 と言いつつも、その場に座り込んだダグラスが再び剣を構える様子はない。ゼェハァと呼吸は荒くなり、汗が滴るのが見える。
 あまり根を詰めすぎても逆効果か。グレンは一つ息をつくと、傍に積み重ねられていた瓦礫に腰を掛けた。
 村を出たグレンたちは、新たな街に到着していた。
 様々な地方から訪れた行商人たちが商いをする、活気溢れる街。
 今グレンたちがいるのは、街の中心から離れた空き地。しかし、街の賑やかな音が僅かにこちらまで届いてくる。
 街中、どこを歩いても人、人、人。そんな街で、なかなか人が通りがからないところといったら、こういう離れの空き地しかないのだ。
 なぜそんな場所にいるかというと、二人で剣の練習をしていたからだ。
 最初に話を持ちかけたのはグレンだった。
 森でベアと、そして屋敷で悪魔と対峙したとき。グレンは己の力不足を痛感していた。いずれも討伐することはできたが、運が良かったようなものだ。後者に至っては、あの少女の介入がなければどうなっていたか知れない。
 突然現れた謎の少女は、グレンと同じ魔族だった。
 彼女は祭壇を壊して去っていった。目的は分からないが、祭壇のある場所へ行けば、再び会うこともあるかもしれないと三人は結論付けた。魔界へ戻る方法も知っているかもしれない。
 そして、この街へ辿り着いた。
 街に着く前から、グレンは剣の練習のことをダグラスに持ちかけていた。
 人に頼み事をするのが、グレンは苦手だ。しかし、ダグラスは二つ返事で引き受けた。人に頼られるのが好きらしく、その上、

「グレンからの頼み事は初めてだったから」

 少しでも認めてもらえたようで嬉しい、とダグラスは言った。率直な思いを真正面から受けるのに不慣れなグレンは、若干の居心地の悪さを覚えたが、街に着いてから二人の練習は始まった。
 とは言っても、ダグラスも剣の稽古を受けたことなどない自己流のため、教えられることはあまりない。剣は鞘に収めたまま、ダグラスが振り下ろした剣をグレンが受け流したり、かわしたり。
 最初はぎこちない動きだったが、グレンの剣の捌き方は徐々に良くなっていった。
 それに一番驚いていたのは、手合わせをしているダグラスだ。慣れ始めると、今度は反撃をしてくるようになった。グレンの剣を受け止め、ダグラスも負けじと剣を返す。が、すぐにかわされる。
 手数の多さと素早さ。それらに翻弄され、体力では自信があったダグラスもお手上げ状態になった、というわけだ。
 木々に囲まれたこの場所は、高く上った太陽の日差しを遮ってくれる。
 爽やかな風が吹き抜ける木陰で腰を落ち着かせながら、グレンは黙って地面を見ていた。
 グレンは気付いていた。ダグラスは手加減をしている。だから、グレンの動きに反応できない。
 なぜ手加減をしているか。それは、ダグラスの扱っている武器が大剣だからだ。
 グレンの持っているような普通の剣ならば、鞘に収めたままの稽古で怪我をすることはない。だが、大剣は重量がある。加えて、ダグラスにはそれを扱える程度の腕力もある。当たりどころが悪ければ怪我では済まないかもしれない。
 しかし、気を遣われているという事実が、グレンにはあまり嬉しくないことだった。それがダグラスの性分だとしても。

「どうしたの? 変な顔して」

 変、という言葉に、グレンは更にむくれて「別に」とそっぽを向いた。

「グレン、飲み込み早いね。戦い方も慣れてるみたいだし、何かやってたの?」

 ダグラスの問いに、グレンは渋々向き直った。

「……魔物退治」
「魔物退治?」
「魔界は魔物が多いから、よく依頼があるんだよ」

 魔界には、魔物討伐の依頼を請け負う団体がある。
 主に戦闘技術に優れた者たちで構成されており、グレンもその中の一人だった。
 とは言え、魔法が使えない今の状態では、魔物退治で金を稼ぐどころか生きていくことすら危ういが……。

「でも、剣じゃなくて魔法で戦ってたんだよね? 戦いのセンスがいいのかな。オレがグレンに教わったほうがいいみたいだ」
「そりゃどーも」
「本当だって!」

 お世辞として聞き流そうとしていたグレンだが、急に声を大にしたダグラスに驚き、座っていた瓦礫から滑り落ちそうになった。

「オレ、単に力が強いだけでさ。技術なんて全然ないけど、グレンは違う。ベアと戦ったときだって、剣使うの初めてだったのに倒しちゃうし」
「あれは、ラカが火の魔法を使ったから……」
「それでも、大した怪我もせずに倒すなんてなかなかできることじゃないよ。グレンは戦いの才能があると思うなぁ。絶対そう!」

 そう言うと、ダグラスは身振り手振りも交えて、いかにグレンが戦いに優れているかを力説し始めた。
 呆気にとられ、黙って聞いていたグレンだったが、次第に異変が生じてきた。
 顔が燃えるように熱くなってきたのだ。

「反射神経もいいし、感も鋭いし……って、ちょっと、どこ行くの!?」

 グレンは地面に足を下ろすと、街中へと続く路地へ足早に身を滑らせていった。
 後ろからダグラスがグレンを呼ぶ声が聞こえるが、そのたびにグレンは歩調を速めてズンズンと進んだ。
 声が聞こえなくなると、グレンは振り向いた。追ってきてはいない。グレンは深く息をついて、ガシガシと頭を掻いた。そして顔中に篭った熱を振り払うようにブンブンと左右に首を振った。
 好き放題言いやがって。
 グレンは歩調を緩めると、レンガの外壁に触れた。ひんやりとした温度が手に伝わる。
 グレンは、誰かに褒められることに耐性がない。気恥ずかしさが勝って、いたたまれなくなってしまう。
 あんな風に、人から素直に褒められたのは初めてではないだろうか。

「あー……くそ」

 身体の内側がムズムズする。
 まだ頬に若干の熱が残っている。しばらく戻れそうもない。仕方なく、グレンはそのまま路地を歩いた。レンガの建物に挟まれたその道の先には、昼間の街の喧騒があった。
 往来を覗き込んで、グレンは息を飲んだ。
 ごった返す人々の中、快活な商人たちの声が飛び交っている。グレンが出た道は広い街道で、その道端に商人たちが露店を連ねていた。
 色とりどりの布を頭上にかざして日よけにし、その屋根の下では様々な商品が並んでいる。
 瑞々しく育った果物や、美しい風景の描かれた絵画、宝石のついた装飾品など。値踏みするようにじっくり見て歩く者や、値引き交渉をしている者もいる。
 その圧倒的な活気に、グレンは暫し固まった。人間界に来て初めて訪れた、ダグラスの住んでいる街も活気があると思ったが、その比ではない。恐らく、人口が何倍も違う。これほど大勢の人の群れは、魔界でも見たことがなかった。魔界は、人より魔物のほうが多いのではないかと思えるほど寂れているからだ。
 しかし、これだけ人がいれば、自分のことを気にする人間などいないだろう。グレンは一度、人間より目立つ長い耳を軽く撫ぜて、喧騒の中へ足を一歩踏み出した。

「この辺じゃ、めったに見られないメラコフの実だよ! 買った買った!」
「お客さんにだけ特別、一つサービスしちゃおう。気に入ったらまた買いにきてちょうだいな!」

 賑やかな声で溢れかえる通りは、人とすれ違うことさえやっとの状態だ。
 人の流れに合わせて(というより『流されている』と言ったほうが正しい)、グレンは立ち並ぶ露店を眺めながら歩いた。どこからか 芳ばしい匂いも漂ってきて、グレンの腹の虫が騒ぎ出す。
 肉の匂いだ。
 そういえば腹減ったな、と考えていると、匂いの発生源だろう店が見えてきた。定食屋の外で、わざわざ肉を焼くパフォーマンスをしているらしい。体格の良い大男が、鉄板の上で分厚い肉を焼いている。
 大男の横に掲げられている看板には、
『大人気! グロウベア入荷しました』
 と、書かれている。

「兄ちゃん、試食するかい?」

 言葉を投げかけられ、グレンははっとした。見ると、大男が人の良さそうな笑みを浮かべてグレンを見ている。顔を上げたグレンを見て、男は不思議そうな顔をした。

「あんた、エルフかい? 珍しいな、こんな街中で。いや、でも……」

 グレンはまずいと顔を強張らせた。男の視線が、まじまじとグレンの額の紋様を見つめていたからだ。
 グレンはさっと踵を返すと、再び人の流れの中に飛び込んだ。
 危なかった。
 多すぎる人混みのせいもあり、グレンはいつの間にか滲んでいた額の汗を手の甲で拭った。
 ふと視線を上げると、人の群れの中に、目立つ赤い服の少女を見つけた。
 大人しく、自己主張の少ない彼女が着るにはあまりにも鮮やかな赤色。夕日色のヴェールも相まって、こんな往来の激しい街中でもすぐに目に付く。
 その衣装は、アルクメリアから神子に支給されるものだと言っていた。簡単な防御魔法がかかっており、邪気を払い退ける効果があるらしいが、あまり効果はないように思える。実際、屋敷で遭遇した悪魔は、何の抵抗もなく彼女の前に姿を現したのだから。
 グレンとダグラスが街外れで剣の練習をしている間、彼女――ラカは別行動だった。バザールで買い物をしていたんだなと納得し、何気なくその姿を見ていると、不意にラカの身体がよろめいた。人にぶつかったらしく、衝撃のあったほうを振り向いて頭を下げている。この人混みでは無理もない。ぶつかった相手の男も軽く手を上げて、何事もなかったように歩き出した。
 その後ろ姿を見て、グレンは駆け出した。ラカの死角となるように、男が隠したもう片方の手。その手に、男が持つには不似合いなポーチが握られていたのだ。

「おい!」

 グレンが声を張り上げると、周囲の人々は一斉にこちらを見た。ラカが目を丸くしている。グレンが近くにいたことに気付いていなかったのだろう。
 案の定、先ほどラカとぶつかった男もグレンのほうを振り返る。グレンと目が合うと、苦虫を噛み潰したような顔つきに変わり、逃げるように人の波を掻き分け始めた。
 何が起きたのかとおろおろしているラカの元へ辿り着く。すれ違いざまに、グレンは早口で言い放った。

「財布! 盗られてんぞ!」
「え!?」

 ラカがびっくりした様子で懐を探っている。グレンは舌打ちして、逃げる男の姿を追った。