2│商人

 人の波の合間を縫って、逃げる男の背を追いかける。
 人にぶつかり、押され、グレンは舌打ちをした。
 男との差がぐんぐんと開いていく。走る速さでは、そうそう人に負けない自信があるのに、どんどん引き離されていく。
 男は、この人混みに慣れているのだろう。きっと何度も同じように盗みを働いているはずだ。
 離されすぎてしまうと、人混みに紛れて目で追えなくなる。今は辛うじて男の後ろ姿を確認できているが、見えなくなってしまうのも時間の問題だ。
 グレンの視界の端に、塀に沿って積み上げられた木箱が映った。商人たちの商売道具が入っているのだろうそれに、グレンは目を光らせた。
 直角に進行方向を変えると、グレンは木箱の元へ駆けた。階段上に積まれたそれを一息で駆け上る。塀の上に立つと、男が逃げていく方向を確認し、後を追った。
 ここからなら、人の頭上を優に見下ろせる。つまり、男の姿を確認することも容易だ。
 男が向かうその先に、少しだけ人の波が途切れた場所がある。そこへ差し掛かったとき、グレンは塀を思いきり蹴って飛び降りた。目下にある男の背中を蹴り飛ばすと、男は悲鳴を上げて地面を転がった。男が隠し持っていたポーチは、その拍子に男の手を離れ、転がって数メートル先の誰かの靴先にぶつかった。
 男が立ち上がるより先に、グレンは男の背にのしかかった。抵抗できないよう、両腕を地面に押さえつけて。男が呻いたが、グレンにはそれに耳を貸す気など欠片もない。

「テメェ、さっき盗んだだろ!」
「な、何のことだか。いきなり何するんだよ?」

 男はシラを切るつもりらしい。グレンの声が無意識に大きくなる。

「とぼけんな! さっき、ラ……女から財布スったの見てんだよ!」
「知らないね。あれは俺の財布だよ。証拠もないのに、変な言い掛かりをつけないでくれ」
「〜〜じゃあ何で逃げる必要があんだよ!?」

 いつの間にか、周囲には大きな人集りができていた。グレンたちを見下ろし、指を差しながらヒソヒソと囁いている。その様子を見た男が、ふっと鼻で笑ったのを、横顔を見下ろしていたグレンは見逃さなかった。
 地面に伏せた不自由な体勢で、男は人集りを見渡した。そして声高に言い放った。

「誰か、助けてくれ! これは単なる因縁だ!」

 そう言われ、グレンは感情の昂るまま、男の襟首を掴んで強引に引き起こした。拳を構え、肩を掴む。こちらへ向かせたところで、一発お見舞いしてやろうとした。
 だが。野次馬の一人に、腕を捕らえられてしまった。
 腕を掴む背後の男をギッと睨み付ける。

「何すんだよ! 離せ!」
「魔族が。噂どおり野蛮な生き物め」

『魔族』という言葉に反応したのだろう。周囲のざわつきが一層大きくなった。
 捕らえられていないもう片方の腕で振り切ろうとしたのだが、更に数人の野次馬が加勢してきた。暴れるグレンを羽交い締めにし、殴られそうになっていた男から強引に引き剥がした。
 なおも振り解こうと抵抗するグレンの足が、男の一人を蹴った。男は苛立ちを露わにグレンの襟元を掴むと、拳を握って顔面に叩きつけようとした。

「まっ、待ってください!」

 高い声が響いて、人々は一斉にそちらを見た。
 人を掻き分けてそこに立ったのは、顔を真っ赤にして息を切らしているラカだった。今しがた、やっと追いついたのだろう。こめかみを一筋の汗が伝うのが見える。
 突然の少女の制止に、グレンを取り押さえていた男たちだけでなく、多くの人々が目に見えて動揺した。鮮やかな色の目立つヴェールと、彼女が手にしているロッドは、アルクメリアの神子である証。
 ラカは荒くなった呼吸を整えようと、胸元に手を当て、何度も肩を上下させた。そして一際深く息を吸い込むと、顔を上げ、グレンを拘束している男たちを見渡した。

「その人は、私のポーチを取り返そうとしてくれただけなんです! どうか解放してくれませんか?」
「いや、しかし、神子さま。魔族の肩なんぞ持たなくてもいいんですぜ?」
「そうですよ。大方気が狂って、人間にいちゃもん付けてきたんでしょう」

 男の一人に頭を小突かれ、グレンはすかさず反撃しようとした。男の鳩尾目掛けて蹴りを入れようとしたが、ギリギリで避けられる。
 それを落ち着かない様子で見ていたラカは、一度ぐっと唇を引き結んでから口を開いた。

「確かに、グレンは魔族ですけど……意味なく人を傷付けたりするような人ではないです!」

 ラカの言葉に、グレンは少しだけ面を喰らった。
 出会ったときから今まで、ずっと恐がらせていると思っていたからだ。
 グレンを取り押さえている男たちも、どうしたものかと顔を見合わせている。そんな中、一人こっそりとその場を離れようとしていた者がいた。
 ラカからポーチを奪った男だ。
 男は落ち着かない様子で、足元をきょろきょろと見渡している。グレンが飛びかかった際に落としてしまった獲物(ポーチ)を探しているのだ。
 それに気付いたグレンが声を上げようと口を開くと、それより僅かに早く何者かの声が響いた。

「探し物はこれかい!」

 男だけに掛ける声にしてはボリュームが大きく、まるでこの場にいる全員に聞こえるように言ったようだった。全員の視線がそちらに集中する。
 ポーチを掲げてニコリと笑ったのは、体格のスラリとした人物。短い金髪に青い瞳、目鼻立ちのはっきりとした、整った顔立ちをしていた。
 ぴったりとした服を着ているせいか、細身なのが際立って見える。線の細い美男子といった印象の彼は、周囲からの注目もまるで気にせずそこに立っていた。男がへらりと笑ってポーチを受け取ろうとするのを、グレンは黙って見ているわけにいかなかった。拘束を解こうと暴れるが、すぐに押さえつけられる。
 あれはラカのものだ。
 グレンは不自由な体勢で顔だけをラカに向けた。しかし、彼女はグレンの視線に気付くと、ただ首を横に振った。
 どうして何も言わないんだ!?
 グレンは苛立ちを抑えられないまま、ポーチを盗んだ男を睨んだ。何か言ってやろうと口を開きかけたが、発言することなく、グレンは呆気にとられた。
 ポーチを拾った金髪の男は、渡すと見せかけ、寸前で手を引っ込めたのだ。そうして満面の笑みを浮かべて言った。

「この中身が何なのか。あんたが持ち主なら知ってるだろ?」

 対して、盗人の男は怪訝な顔をした。
 なぜそんなことを聞くのか、とでも言いたげな顔だ。

「金さ。それ以外にないだろう」

 それを聞いて、金髪の男は口元の笑みを更に深くした。そうして次に視線を別の方向へ向けた。
 その先にいたのはラカだ。彼女と視線を合わせると、金髪の男はラカに向かってポーチを放った。
 ラカが慌てて両の手の平を上に向ける。ポーチは綺麗な放物線を描いて、ラカの手の内に収まった。

「正解は、お嬢さん。教えてくれるかい?」

 金髪の男に言われ、ラカは戸惑いながらも頷いた。

「これは、お金が入ってるんじゃなくて。入ってるのは、ただのお菓子です」

 グレンは目を剥いた。周囲の人々にもどよめきが走る。
 ラカはポーチを開けると、中身を取り出した。丸い、様々な色の包み紙はキャンディーか。他にも、銀紙に包まれたチョコレートのようなものや、小さな瓶に入ったクッキーなど、手の平いっぱいに出てくる。
 だから、名乗りでなかったのか。
 中身が金だと思っていた男は、顔の色を失い、額にびっしりと汗をかいている。

「おかしいな。持ち主なら中身くらい知ってるだろうに」

 金髪の男が放ったその言葉がとどめとなり、盗んだ男は瞬時に駆け出した。

「くそ、どけ!」

 しかし、あまりにも多くの人を集めてしまったこの状況では、逃れられる場所などどこにもない。強引に人々を押し分けて逃げようとするのを、グレンを取り押さえていた男たちが止めた。
 そうして、暴れる男の手に縄を掛けて引きずっていった。

「ここはスリが多いからな。他にもやらかしていないか、調べさせてもらうぞ」

 男はまだ何やら喚きながら暴れていたが、路地の奥に連れられて姿を消すと、その声は次第に聞こえなくなった。
 辺りに喧騒が戻ったのだ。
 人集りも疎らになり、また人の波ができ始める。グレンは徐ろに立ち上がり、手首を摩った。

「いってえ……」
「グレン、大丈夫!?」

 駆け寄ってきたラカに勢い良く顔を上げると、彼女はびっくりした様子で立ち止まった。

「お前なあ、中身が菓子なら早く言えよな!」
「ご、ごめん。盗られたのがお金だったら困るけど、お菓子なら仕方ないかなと思って……」

 そう。だからグレンも、あの男を捕まえなければと思ったのだ。
 ポーチの中身が金だと思っていたから。
 そのとき、グレンはふと疑問に思った。
 ポーチを取り返したあの金髪の男は、中身が金ではないと分かっていたようだった。
 中身を開けたのは、ラカの手に戻ってからだ。なぜ開けてもいないのに分かったのだろうか。
 と、考えていると、横にいるラカに名を呼ばれ、グレンは振り向いた。

「ありがとう」
「あ? 何が……」
「これ、取り返そうとしてくれたでしょう? ありがとう」

 ポーチを見せ、ラカは微笑を浮かべた。グレンはふいと人波に視線を移して、意味もなく見知らぬ人々を見送った。
 ああ、まただ。

「グレン?」

 不思議そうに尋ねるラカの声が聞こえる。
 こういうのが苦手なのだ。
 面と向かって、素直に感謝されたことなどないから。
 身体中の至るところが熱く感じるのは、照っている日差しのせいだけではないだろう。

「グレン、顔赤いよ」
「う、うううるせえな!」

 こんな状態では、いくら声を荒げても迫力など微塵もないに違いない。
 逸らした視線の先にいた、ある人物に目が止まった。石畳の上に布を敷き、出店の準備をしている金髪の男だ。
 彼こそ、先ほどラカにポーチを返した男だった。彼は自分を凝視しているグレンと、その横にいるラカに気付くと、ニッと笑って二人にヒラリと手を振った。