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――Side G
そこは静寂に満ちた暗闇の中だった。
周囲には何の気配も感じない。暑いか寒いかという感覚もない。ただひたすら真っ暗で、何もない空間が広がっていた。
そうっと足を踏み出して、しかし地を踏み締める感覚がないことに気付く。
ここは一体どこだ。
暗闇に向かって手を伸ばすと、指先に何かが触れた。目の前にぼんやりと浮かび上がったそれは、固く冷たい、古びた扉。それがひとりでにゆっくりと開いて、グレンを中へと誘った。
躊躇いつつ扉をくぐると、踏み入れた足元から周囲が照らし出される。目に飛び込んできたその光景に息を飲んだ。
荒れ果てた屋内に、散乱した食器や足の折れたテーブル。
目の前には血塗れの女が倒れていて、顔は判別できないほど無惨になっている。ぐったりとしていて、身動ぎもしない。
女の傍らに佇んでいた一つの影が、グレンを振り返る。その左手には魔力が込められていて、妖しい光を湛えている。触れられたら一溜りもない。
影がグレンに歩み寄る。闇に黒く塗り潰された顔が、にたりと笑った気がした。
「――――あ……!!」
目を開けると、先ほどまで見ていた景色はどこにもなかった。
薄暗がりの中、土の中の聖霊石がぽつぽつと光っている。足元に大小様々な瓦礫が幾重にも重なっているのを見て、グレンはやっと己の身に降りかかった出来事を思い出した。
……魔族の少女を見つけたと思ったら、地鳴りが起きて遺跡が崩壊して。そして気を失ったのだ。
額の汗を拭い、深く息をつく。全身にびっしょりと汗をかいていたらしく、服が肌に張り付くのが不快だった。
グレンは乱れた髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、辺りを見渡した。
少し離れたところに、人が二人横たわっている。聖霊石の灯りを頼りに見たところ、ダグラスと魔族の少女のようだ。
ぴくりともしないことに不安を抱きながら、グレンは恐る恐る立ち上がった。幸いにも怪我はなく、大きく痛む箇所もなかった。
ダグラスの傍に片膝をついて、彼の肩を揺さぶる。間があったが、彼は小さく唸ってうっすらと目蓋を開けた。
ただ地面の一点だけを見つめて、それからやっとグレンを見た。
ぼうっとしたままの彼が呟いた言葉は、グレンを脱力させるのには充分だった。
「おはよう……」
……こいつ、このまま放っとけば良かったかな。
グレンはスッと表情を無にすると、傍で同じように倒れている少女に手を掛けた。
「……あぁ!」
ようやく状況を思い出したらしい。大声を上げて、ダグラスは少し呻きながらこちらへ這ってきた。心配そうに少女の顔を覗き込む。
「気絶してるだけだ」
グレンがそう告げると、ダグラスはあからさまにほっとしていた。
遺跡が崩れ出したとき、少女は逃げるどころか、なぜかその場に座り込んでいた。
巻き込まれる寸前で、ダグラスが彼女を突き飛ばしたらしい。そのせいで重傷を負ったのではないかと心配だったようだ。
この場合、突き飛ばさなければ重傷どころでは済まなかったように思えるが……。
「ラカとケーヤは?」
ダグラスの問いに、グレンは黙って首を横に振る。
崩れた柱の下敷きになっていないことを祈るが、山積みになっている瓦礫は相当な大きさだ。とても人の力でどうにかできるものではない。
また遺跡が崩れる心配もあった。脱出できる道を探しながら、ラカとケーヤを捜すのが良いとグレンは考えた。ダグラスもそれに納得して、ゆっくり立ち上がりながら服の汚れを払った。彼も特に怪我をしている様子はなく、グレンは静かに胸を撫で下ろした。
ダグラスは少女の傍に屈むと、未だ気を失っている彼女の両腕を手に取り、そして背におぶった。
「お人好しだな」
攻撃してきた魔族を連れていくのか。
目を覚ましたら、また攻撃されるかもしれないというのに。確かに彼女は、魔界へ帰るための重要な手掛かりではあるけれど。
「グレンだって、こうするでしょ」
さも当然のように言われて、グレンは口をつぐんだ。
果たしてどうだろうか。自分は彼のようにお人好しではないし、できることなら面倒事には巻き込まれたくない。
それでも、グレンとしても見捨てていくのは夢見が悪い。まあ、ダグラスがおぶっていくならいいか、とグレンは肩を竦めた。こういうとき、身体が大きく力のある彼は役に立つ。
「先頭は任せろ」
「よろしく。無理しないでね」
ダグラスの言葉に、グレンは怪訝な顔をした。
どちらかといえば、無理をしているのは人を一人背負っている彼のほうだと思ったのだ。
「顔色が悪い。具合良くないんじゃない?」
思いがけない指摘に、グレンは一瞬言葉に詰まった。先ほどまで見ていた、気味の悪い夢を思い出す。
「大丈夫だ」
そう短く言い放って、グレンはダグラスに背を向けて歩き出した。
ダグラスは首を傾げて納得していない様子だったが、渋々グレンの後に続いて少女を背負い直した。
大きく崩壊したのは、グレンたちがいた場所だけだったらしい。行く先々、柱や壁が崩れている場所はあったが、進行には問題のないものばかりだった。
更に幸運だったのは、魔物が潜んでいる形跡がないことだ。もし何かが潜んでいるのなら、縄張りを示す痕跡があったり、足跡や小動物の骨などが残っていたりする。
辺りは静かで、グレンとダグラスの足音しか聞こえない。風の音や水の音すら聞こえないこの空間は、外の世界と完全に遮断された異世界のような気さえしてくる。
「なかなか目覚まさないね」
ダグラスが言っているのは、背におぶっている少女のことだ。
「何か夢でも見てるのかな」
「んな呑気な……」
グレンが呆れたような声を出すが、「オレはさっき見てたよ」とダグラスが言う。
「夢先案内って知ってる?」
「知らん」
グレンは振り返りもせずに答える。素っ気なさすぎて、人によってはこれ以上問い掛けるのを躊躇ってしまうほどだ。
それがグレンの素だと知っているからなのか、あまり気にしないたちだからか、それともその両方か。ダグラスは足元に転がっている小さな聖霊石を避けながら歩く。
小さくても質の良い石には聖霊が宿る。淡い光を灯して瞬く様子は、まるで石が生きているようだった。
「人が持つエッジと、聖霊は共鳴するんだって。本人が覚えていないこともエッジは記憶していて、聖霊がそれを呼び起こすことがあるらしいよ」
すべての生命は、この世に誕生した瞬間に固有のエッジを有する。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、通常人には見えない光を放ちながら生命に寄り添う。
だから、本人が忘れてしまったことも、それに宿ったエッジは覚えているのだという。
エッジと聖霊が共鳴し、記憶されたエッジが夢となって呼び起こされる。それが『聖霊の夢先案内』だと伝えられている。
聖霊の存在が濃い場所では、特によく起こる現象だった。
「さっき、夢を見てたんだ。辺り一面、花畑でさ。見たことがない花ばっかりで綺麗だった」
グレンが見た夢とは天と地ほども違う。恐らく、ダグラスのエッジの記憶なのだろう。
「グレンは何か見えた?」
「……いや、特に」
そう言うと、ダグラスは「そっか」と呟いて、追及してはこなかった。
実は、聖霊の夢先案内は魔界にも言い伝えられている。
グレンが知らないふりをしたのは、それを一度も体験したことがなく、人間界で伝わっているものと同じものかどうか分からなかったから。
ダグラスが見た夢は、彼が物心つく前の記憶なのかもしれない。
いつか、どこかの道すがら、グレンはダグラスに一冊の本を見せてもらったことがある。
古びた植物図鑑のようなもので、見たことのない様々な植物のイラストが描かれている。イラストに添えられている文章もまた見たことのない言語で、持ち主のダグラスにも内容は解読できていない。唯一読めるのは、裏表紙に共通言語で書かれた『Douglas』の名前だけ。
それが彼の名前の由来だった。
ダグラスは、物心つく前にラカの住む村で本と共に拾われた。いつかこの本に描かれている植物を見てみたい。そう思ったのが、今の職を選んだきっかけだった。
傭兵は、世界中の旅人と関わる機会の多い職業だ。多くの旅人に尋ねれば、本に描かれた珍しい植物を知っている人間に出会えるのではないかと考えたのだ。
能天気そうに見えて、意外と複雑な生い立ちなんだな。そう思ったのをグレンは覚えていた。
「ねえ、グレンのこと、何か教えてよ」
「……なんで」
「だって、いつも俺ばっかり話してるよ。グレンの話も聞きたい」
それは、お前が勝手に話し出すからだ。そう思いながら、グレンは黙った。
自分のことを話すのは、あまり得意ではない。
「人間界に来るまでは、どんな所に住んでたの? 家族は?」
「……家族はいない」
「両親とか兄弟は?」
「兄弟は、どうだろう……親は死んだって聞いたけど」
「……ええ?」
ダグラスが微妙な声を漏らす。
自分のことなのに、他人事のような物言いが気になったのだろう。実際、グレン自身も奇妙なことだと思う。
両親が死んだということすら伝聞で、グレンが家族について知っていることはほとんどない。
魔界にいた頃のグレンと同じく、両親も魔物討伐団体の一員だったらしい。それなりに腕は立ったらしいが、ドラゴンの討伐に失敗して死んだと聞いた。魔物と争って命を落とす者は、人間だけでなく魔族でも意外に多い。
以降、グレンの生活は後見人に委ねられることになるのだが。それ以前に、どこで、どのように生きていたのか、まったくと言って良いほど覚えていないのだ。
両親の顔や、どんな人物だったかということも。
「オレみたいに、物心がつく前だったとか?」
「いや……シャールに会ったときのことは覚えてるから……」
「シャールって?」
言ってから、グレンは顔をしかめた。
一番古い記憶にいる男。グレンは彼のことが苦手だった。
あまり良い思い出がないため、進んで説明する気にもなれない。それを抜きにしても、グレンは自分のことを話すのは苦手だった。
分からないことが多すぎて、話すことすべてが曖昧になってしまうから。
「誰? 彼女?」
「違ぇよ!」
グレンが声を張り上げた直後、ダグラスが僅かに悲鳴を上げた。
魔物か。グレンは剣を構えながら素早く振り返った。