6│道標

 ダグラスが顔を引きつらせて立ち竦んでいる。なぜなら、彼が背負っている少女が、ダグラスの首元に蛇を突き付けていたからだ。
 いつの間に目を覚ましたのか。
 彼女の腕から生えた黒い蛇が、真っ赤に割けた口を開いてダグラスを威嚇している。

「降ろしてください」

 少女は静かな声で言った。

「え、でも……」

 口篭りながらこちらを見やるダグラスに、グレンは舌打ちしたいのを堪えながら渋々頷いた。
 ほら見ろ、面倒なことになった。
 ダグラスは、少女が降りやすいようにゆっくりと膝を曲げる。しかし、少女はそれを待たずに、強引に振り解くようにして地面に足を降ろした。
 そのせいでバランスを失い、少女はその場に尻餅をついてしまった。
 その衝撃で、腕から生えていた蛇がシュウッと消える。他に召喚する様子がないのを見て、グレンはずかずかと足を踏み鳴らして少女の傍に立った。

「おい、テメェ。助けてやったのに、恩を仇で返すのかよ」
「助けたの、オレだけどね……」

 すかさずダグラスが修正する。少女はグレンを鋭く睨み付けたまま動かない。逃げるでも攻撃するでもなく、ただグレンを見上げている。

「……ねえ、ずっと気になってたんだけど」

 ダグラスが一歩足を踏み出すと、少女は素早くダグラスに向き直って威嚇した。

「その足の傷、もしかして葉っぱで切った?」

 彼女の足を見る。左足のアイボリーのニーハイソックス。その生地が一部裂けて、周りに緑色の液体が付着している。

「ここに来る前、雫形の、大きな固い葉で切りました」

 少女の言葉に、やっぱり、とダグラスは呟いた。

「何だってんだよ。葉っぱで切るくらい」
「ヒクラムの葉だよ。葉っぱなのに異常に固くて、緑色の粘液で覆われてる」

 一部の湿地に群生している植物で、人の皮膚を簡単に傷付けるほどの強度を持つ。一般人にはあまり馴染みのない植物だが、表面を覆う粘液と葉液を上手く調合すると良薬になるため、薬師や医者がよく扱う。
 だが、葉によって皮膚が傷つき、粘液が付着すると、その箇所に痺れが生じる。そうしてしばらくすると、麻痺が酷くなって動けなくなるのだから、恐ろしい植物だ。
 この少女は恐らく、その麻痺にやられている。ダグラスは少女の傍に膝をつくと、荷物からてきぱきと様々な物を取り出した。
 水筒、清潔な手拭い、謎の小瓶。訝しげにそれを見ていたグレンと少女だったが、次のダグラスの行動に、ぎょっとして目を剥いた。
 スカートから覗く少女の白い太腿に手を伸ばしたのだ。

「痛った!」

 触れるか触れないかの瞬間、グレンは咄嗟にダグラスの頭頂部に拳を振り下ろしていた。
 頭をさすりなから、ダグラスは涙目でグレンを見上げた。

「何すんのさ!」
「こんなとこでサカってんじゃねえよ!」
「はぁ!?」

 少女は右手を振り上げたまま、ダグラスを見据えている。グレンが先に手を下さなければ、強烈なビンタをお見舞いされていたに違いない。
 グレンと少女とを交互に見て、殴られた意味がようやく分かったらしい。ダグラスはじわじわと頬を染めて、最終的には顔だけでなく耳まで真っ赤になっていた。

「ち、違う! 変なことしようとしたんじゃなくて! 靴下を脱がせようと!」

 それは本人に脱いでくれと頼めばいいだけの話だ。慌てふためくダグラスの様子から察するに、本当に変な意味はなかったのだろう。
 怪我を何とかしたい、という思いが真っ先に働いて、それ以外は何も考えていなかったらしい。真っ直ぐだが、少々鈍感なところがダグラスにはあった。

「……ホントに、やましいことはなくて……ヒクラムの葉でできた傷は、神経に関わることもあるから……」

 しどろもどろになりながら、ダグラスはどんどん小さくなってしまった。まるでお仕置きに怯える犬のようだ、とグレンは思った。
 少女は既に振り上げた手を下ろしていたが、感情の読めない表情でダグラスを見ている。そして、おもむろにソックスを指で引き降ろした。
 きめ細かな柔い肌が、聖霊石の淡い光に照らされる。
 傷口に滲んだ血は既に乾いていたが、茶色く酸化した血痕から覗く真皮が痛々しい。
 ダグラスはおっかなびっくり少女を見た。少女はじっと傷口に視線を注いだまま身動ぎすらしない。それを見て、ダグラスはおずおずと水筒を傾けて手元の手拭いを濡らした。
 手拭いで汚れを拭い、流水で傷口を洗う。水が触れる一瞬、少女がピクリと眉を動かしたが、それ以外はずっと無表情だった。
 変な女だ。グレンは思ったが、自分が言えたことではないか、と思い直し、静かに溜め息をついた。
 人間界へ迷い込んだ挙げ句、原因不明に魔法まで使えなくなっているのだから。
 取り出した白い軟膏を指で掬うと、ダグラスは少女の傷口にそっと塗り込めた。そのあとにガーゼを宛がい、くるくると手早く包帯を巻いていく。端を割いて結び、「できた」とダグラスが一言。
 ダグラスの薬は良く効く。治癒術のほうが手っ取り早くはあるが、術者の体力を温存したいとき、今のように術者がいないときなどはかなり重宝する。
 少女は驚いたように目を見張って、手当てされた患部を見ていた。少女はやや遅れて、

「……ありがとうございます」

 と頭を下げた。その様子にグレンは面食らったが、ダグラスは微笑んで一度頷く。

「半日くらいしたら、麻痺が治って歩けるようになるよ。それまでオレたちと一緒に行動することになるけど……」

 それでも大丈夫? とダグラスは少女に尋ねる。
 自分たちはラカとケーヤを探さなければならないし、少女をここに一人で残すこともできないから、ということだろう。
 少女は僅かに眉を寄せた。巻かれたばかりの包帯に視線を落として黙り込む。
 暫し流れた沈黙の中、グレンはがしがしと頭を掻いて、

「さっさとしろよ。お前がおぶっていくんだろ」

 と顎でしゃくった。
 その言葉に、今度はダグラスが目を丸くしてグレンを見る番だった。

「何だよ」
「いや、勝手に話進めるなって怒ると思ったから」
「俺はこの辛気クセェ場所から早く出たいんだよ」

 踵を返して、グレンは奥へと歩みを進める。何やら表情を緩めるダグラスのことは見なかったことにした。
 向かう先には分かれ道があった。
 右と左、どちらも見た目に差はない。どうしたもんかとグレンが立ち止まっていると、

「左の道に行ってください」

 と、少女の声。
 少女をおぶったダグラスがグレンに追い付き、隣に立ったのだ。

「道が分かるの?」
「聖霊が左の道へ流れています。何か特別な力に惹かれているのかと」

 特別な力とは、恐らくラカの神子の力のことだ。
 聖霊は、強い魔力や特異なものに惹かれる性質を持つのだという。
 ラカの魔力がどれほどのものなのかは知らないが、それより何より、グレンとダグラスを驚かせたのは少女の能力だった。

「私は聖霊守護者です」

 まだ見習いですが、と付け加えた少女は『メル』と名乗った。
 グレンと同じ、魔界からやってきた魔族。
 栗色の髪は決して珍しいものではないが、それは毛先へ向かうにつれて明るいオレンジ色へと色を変えている。髪の色が変わるのは、強力な魔力を持つ者の特徴だ。魔界では『奇色』と呼ばれ、畏れられるのと同時に忌み嫌われてもいる。
 人間界では馴染みのない、聖霊守護者という存在。聖霊は、マナや魔法に関わる神聖な存在として崇められてはいるが、人間でその姿を目視できる者はいないとされている。魔族と比べて魔力が弱いからだ。
 聖霊守護者の役割は、聖霊を介して世界を調律すること。分かりやすく言い換えると、『異変が起こった際に原因を探る』ということだ。
 世界はマナと聖霊が循環して成り立っている。マナが減少すれば聖霊も姿を消し、世界は魔物の凶暴化、異常気象、大地の枯渇など、様々な異変に見舞われる。
 魔界で聖霊が消えつつあるのを感じ、聖霊守護者は動き出した。メルの師匠の魔女が偉大な聖霊守護者だが、今は体調を崩しているため、弟子のメルが人間界へ赴いたらしい。
 聖霊界を挟んで、人間界と魔界は繋がっている。タイミングの差はあれど、どちらかの世界に異変が起これば、必ずもう一方にも同じような異変が起きる。

「魔界を守護する大聖霊には会えませんでした。なので人間界の大聖霊に会えば、何か分かると思いました」

 メルが人間界の祭壇を破壊していたのも、大聖霊と交信するためだったという。

「じゃあ、魔界への戻り方は知ってるんだね?」
「はい」

 グレンとダグラスは顔を見合わせた。
 やっと帰り道の手掛かりを見つけた!

「ですが、条件が揃わないと行き来できません。簡単に行き来できたら、人間界は魔物の巣窟になってしまいますから」

 たしかに、とグレンは眉を顰める。魔界の魔物は人間界の魔物より何倍も凶暴だ。その上、悪魔や魔獣なんかが人間界へ流れ込んだら、即刻地獄絵図と化すだろう。
 だが、一歩前進だ。希望の光が見えてきた。グレンは歩きながら、拳をぐっと握り締めた。

「オレたちに見えてないだけで、聖霊は普通に存在してるんだよね。不思議だなあ」
「聖霊は人を好みますよ。だから魔法を使うときに力を貸してくれます。あなたは聖霊の加護を受けてますね」

 聖霊に好まれる者は加護を受ける。周囲に聖霊が集まり、活力を与えてくれるのだという。
 メルの説明に、そうかなあ、とダグラスは首を傾げた。

「オレ、魔法使えないけど……」
「魔法を使うのと、加護を得るのは別の話です。魔法を操る人は多いですが、加護を得るほうがとても貴重ですよ」
「あ、じゃあさ、グレンは?」

 ダグラスが前を歩くグレンを指差す。
 グレンは顔をしかめて振り返り、ダグラスを睨んだ。

「やめろ、こっちに振るな」
「だって、こんな機会めったにないよ。聖霊守護者に視てもらえるんだよ?」
「加護なんて、んなモンなくたっていい」

 グレンはフンと鼻を鳴らす。
 強がりではなく、本心だった。
 魔法が使えた頃は何不自由なく戦えていたし、必要充分以上の実力も持っていた。
 魔力さえ戻れば、加護などなくても。

「……あなたに加護はないようですが」

 そう前置きをして、メルは続ける。

「誰しも、周りには精霊が存在します。それは加護のない人も同じです」

 メルの言わんとしていることが汲み取れず、グレンは怪訝な顔で振り返った。
 常に無表情だと思っていたメルは、僅かに目を凝らすようにしてグレンを見ていた。いや、グレンの『周囲』を見ていた。
 しばらく黙ってそうしていたが、やがてメルは首を弛く横に振った。

「あなたにはそれすらない……何か呪いのようなものを受けているみたいに」

 グレンは顔を強張らせた。屋敷で戦った悪魔に言われたことと同じだったからだ。
『呪いを受けているから、エッジが見えない』のだと。

「あなたは、他の人と何か様子が違います。私に分かるのはそれだけですが……」

 グレンは唇をぎゅっと引き結ぶ。
 自分と世界に何かが起きている。
 それがなぜだか偶然とは思えず、グレンは負の感情を振り払うように地面を強く踏み締めた。