*│無題

 切り立った崖の上、眼下には黒い海が広がるその場所に、グレンの目的はある。
 辺りは殺伐としていて、人影どころか魔物の姿すらない。栄養が少なく、痩せた大地。枯れかけた雑草と乾いた土を踏み締めて、グレンは並んだ二つの岩を見下ろした。
 その岩と岩の間に、持ってきた物を無造作に置く。ここに来るまでに萎びてしまった一輪の花。白かった花弁は所々変色し、やっと花托にくっついているような状態だ。
 魔界の土地はどこも荒れ果てている。花なんて繊細な生物は、変異した奇形植物たちに養分を奪われ、どこからもその姿を消しつつある。
 波が寄せる音を聞きながら、グレンは無表情のまま、二つの岩を見下ろしていた。

「何か言ったら?」

 突然の声に少しぎょっとして、グレンは後ろを振り返った。後見人である彼の姿を認めると、苦い顔をして岩に向き直った。

「……だって、何も話すこと、ねえ」
「別に何だっていいんだよ。昨日の飯の話でもいいし、仕事の話でもいい。思いついたこと、何でも」

 そう言われても、グレンは難しい顔をしたまま立ち尽くすだけだった。
 何の変哲もない二つの岩は、墓標。グレンの両親の墓だ。
 しかし、グレンに両親の記憶はない。物心つく前に死んでしまって、シャールに引き取られた。この地を教えたのもシャールだった。
 顔も覚えていなければ、どういう人柄だったとか、一緒に何をしたとか、それすら覚えていない。
 記憶がないことを、別段寂しいと思ったことはない。伝えたいことも特別ない。それでも、たまにここへ訪れては枯れかけた花を添えていく。一切訪れないのは不義理ではないかと、漠然と感じているからだ。

「前に来たのは何年も前だったから、おチビが誰だか分かんないんじゃない」
「な、何で前に来たこと知ってんだよ」
「さあ。何ででしょう」

 くつくつと笑って、シャールは煙管を吸った。吐き出された白い煙が風に靡く。グレンはばつが悪そうに空を仰いだ。
 赤紫は、闇の色に溶けて消えようとしている。濃い闇に、ぽつりぽつりと白い星が浮かび上がる。

「……帰る」

 グレンは墓標に背を向けて、シャールの横をすり抜けた。夜の崖には危険が多い。

「伝えたいことは」

 シャールが振り返りもせずにそう言うと、「もういい」と短い言葉だけが返ってきた。

「また来る」

 崖を降りるグレンの姿は、すぐに見えなくなった。
 それを見届けて、シャールは煙を吐き出す。闇色の空を見上げると、まだ数少ない星が瞬きながらこちらを見下ろしていた。

「せっかちだねぇ」

 小さく笑って零した独り言は、誰の耳にも届くことなく。
 通り過ぎる風が冷たくなってきたのを感じ、シャールもゆっくりとその地を後にした。

たまーに(数年に一回程度)グレンは両親の墓参りに行きます
毎回一人で行ってるのに、いつ行ったかはなぜかシャールにバレています
遠い場所にありますが、魔物も出ないようなへんぴな所なので割と安全です